夏五月、嘉福殿。
司馬懿は召しだされて、曹魏の宮城にいた。
速やかにその側に侍れ、との命だった。
使者の様子から、その命が下った背景を司馬懿は理解した。
早いというべきか、ようやくというべきか。
多くの者にとって、短い時間であっただろう。
まだ、続くと信じていたことだろう。
世界は始まったばかりで、何もかもがこれから整っていく。
そんな時間の中だった。
司馬懿は魏の皇帝の枕辺に侍る。
「お待たせいたしました」
自分よりも若い男は、一気に歳を取ったように思えた。
あっという間であったというべきか、思ったよりも長かったというべきか。
こんな日が来ることを司馬懿は知っていた。
それは幾年前の日から決められていたこと。
暗黒が陽を喰らった日から、定められていたように思えた。
ゆるりと太陽はその姿を現し、すべては生まれ変わったように見えた。
確かに失われたものはあったが、良い節目になったはずだ。
国の整いぐあいを見れば、瞭然のことだ。
人民は豊かになっていく。
日ごとに幸せが増えていく生活に、誰もが喜んだ。
快哉を叫んだ。
だが、皇帝だけは違った。
「仲達よ。
私は綺麗ごとを並べるだけのあの男とは違う」
曹丕は言った。
病を得ているはずだが、その声には張りがあった。
「お前の才は買おう。
その才は、いかほどか語る必要もないだろう。
元仲をよくよく補佐するよう」
遺言であり、後継者の指名だった。
誰を意識したのか、あまりにも露骨すぎる。
死しても、その名に囚われ、その言葉に囚われる。
一言一句もらさずに。
その感情の細やかなひだを見つめて。
思いに共感し、願いを先読みする。
そうせずにはいられなかったのだろう。
偉大な漢の遺したのは、強大な国の基盤だけではない、ということだ。
「ご下命を受けずとも、必ずや」
司馬懿は頭をたれる。
「私が違う名を挙げるとは思わなかったのか?」
「臣は、元仲殿以外の名が挙がるとは、思ってもいませんでした」
曹叡は、幾人かの候補者の中で、流血が少なく後継になれるものだった。
それを次の皇帝にせず、誰を皇帝にするというのか。
父から、長じた息子へと引き継ぐのが、最も軋轢を生まない。
司馬懿の答えに満足したのか、曹丕は軽く笑んだ。
「フッ。
……仲達よ、これから詮無きことを問う。
答えを口にして後、すぐ忘れよ」
「はい」
「私の諡号は何になる?」
諡号は、その少なき文字数で皇帝の業績を讃える。
愚かな皇帝には、暗の意味の漢字が。
人心を掌握した皇帝には、美しき意味の漢字が。
次の皇帝によって、贈られるのだ。
魏を開いた皇帝に贈られる号は、すでに決まったようなもの。
討論の必要はないであろう。
「おそらく『文』と」
学問に好み、民を慈しんだ皇帝――『文帝』と。
そう評されるであろう。
「そうか」
嬉しそうに曹丕は言った。
すべてが終わる直前に、孤独な男はようやく安心する。
曹魏の二代目の責務。
父からかちえた信頼のため、犠牲にしてきた諸々のため。
良き皇帝として、史書に記されなければならない。
「もう良い。
退がれ」
曹丕は言った。
司馬懿は、もう一度頭を垂れ、退出をする。
ふと思い立ち、衝立の前で振り返った。
皇帝と臣下としての会話はすんだ。
気まぐれに、甘言の一つでも、言ってみたくなったのだ。
あるいは、どんな反応が返ってくるか、知りたくなったのかもしれない。
「甄姫様がお待ちですよ」
司馬懿は言った。
「もちろんだ」
自信に満ちた答えだった。
「これは、失礼いたしました」
五月十七日。嘉福殿にて、帝 崩御す。
時年 四十。
その諡号、文帝。
補足
1.タイトルの「遺孤を託す」は、劉備が孔明に遺言した「あの言葉」が元の言葉です。
2.曹叡の字は「元仲」です。
3.諡号については諡号辞典さんがおススメ。
4.甄夫人の死んだ日に、日食が起こりました。
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