221年のこと。
于禁が病に倒れたという。
その報告を受け取った皇帝の口の端が歪む。
「それは大変だな。
見舞いを出さねばなるまい。
安遠将軍は、この曹魏になくてはならない人物だからな」
慈愛に満ちた声が言う。
呉に向かう使者として立てられながらも、役目を果たせなかった臣下に寛大なる慈悲だった。
表向きは、そう見えた。
だが、そうではないことを知っている臣下たちはうつむく。
満足そうに笑む、その姿。
そこには労わりも、慈しみも存在していない。
あるのは、冥い悦び。
それを正視できた者は、そこにはいなかった。
◇◆◇◆◇
「何故? と問うても、かまいませんか?」
人払いのすんだ房で、痩躯の男が言った。
黒い羽扇と青紫の長袍が男の顔色を青白く見せる。
「何をだ?」
曹丕は機嫌良く応じた。
こんな日が来るのではないかと、司馬懿は考えていた。
程なく于禁は死ぬだろう。
捕虜になった身に与えられたのは、屈辱的な死。
直接手を下さず、命を下さず、暗き淵に追いやる。
教え子が好みそうなことであった。
あの水害で死んでいれば良かったものの。
たいした命ではないのに惜しむからこうなった。
愚かなことだ、と司馬懿は胸のうちで嘲る。
「先代の御陵に絵を用意したそうですね。
何故、そこを選んだのですか?」
司馬懿は訊いた。
「似つかわしいだろう?」
残酷なまで優しく曹丕は言った。
青焔と称えられる瞳は、鈍色。
嵐を呼ぶ雲の色をしていた。
そう、まるで青年の父のような色だった。
思い返すのは、三年前の嘆息。
もらされた言葉を忘れるほど、昔のことではない。
「父の前でも平然としていられたら、許してやろうと思ったのだ。
よく仕えてくれた者だからな。
それぐらいの仁は持ち合わせている。
だが、無理だったようだな」
青年は嬉しそうに言った。
やはり、敵討ちのつもりであったのか、と。
司馬懿は納得した。
父を呆れさせた将を自分らしく始末をつけたかったのだ。
誰もが期待を寄せる皇帝であれば、捕虜を殺すわけにはいかない。
新しき世は、汚れなく美しくはければならない。
民がそう信じ込むことができるような、国でなければいけない。
誰がために?
それは後継に選んだ父の名誉のためだ。
「そうですか」
司馬懿はうなずいた。
きっと教え子は気がつかない。
気がつかないほうが良い。
だから、司馬懿は口を閉じたのだった。
嘆息の終着地点は暗き底。