あなたはとても綺麗で、強い。
譲は月を見上げていた。
京の梶原邸の夜の廂が譲のものだったように、ここでも譲一人きりだった。
誰もが寝静まる夜。
夜行性の鳥の鳴き声と虫の音が涼しげだった。
昼と違い、運動でもしない限り汗がにじむこともない。
快適な田舎の夜だった。
眠りさえくれば……。
まったく眠れないわけではない。
身を横たえれば、眠りはじわりと這い上がってくる。
が、決まって夢を見るのだ。
日毎、深まる不吉な夢。
夜毎、詳しくなる悪夢。
それらが譲を臆病にする。
眠るのが怖い。
それ以上に、夢の中の出来事が怖い。
夢など見ないように、目をつぶっても同じこと。
嘲笑うように夢はくりかえす。
同じ場面を何度も、何度も。
譲の心をすり減らせるように。
だから、譲は眠りを避けるようになった。
娯楽のない世界で、夜にできることは少ない。
こうして空を見上げることぐらいしかできない。
廂に出て、月を仰ぐのは日課になっていた。
譲は、今日も月を見上げる。
自然の濃い熊野は、信じられないぐらい星が見えた。
それを数えるのが無粋なほどに多い。
たくさんの点をつなげるのは容易ではなく、星座を探す気もなくなる。
少し欠けた月は、白い。
まるで、一つ年上の少女の肌のようだ
それでいて、優しい。
眠りにつけない譲をその清き腕で包み込んでくれる。
何度見ても、見飽きないところも、似ている。
月が彼女に似ているのか。
彼女が月に似ているのか。
考えれば、考えるほど深みにはまる。
ずるずると泥沼のように、思考は囚われていく。
妄想と狂気が緩やかに混ざり、譲を締めつける。
それすらも心地よくて、少年は目を閉じる。
ずっと好きだった。
誰よりも傍にいようと、努力した。
彼女のためなら、何だってできた。
その望みのためなら、何も怖くない。
化け物退治も、人殺しも。
それで隣にいられるのなら。
……今夜は、感傷的だな。
嫌になるぐらい。
譲はそのまま後ろに倒れこむ。
床はひんやりとして、気持ちが良かった。
心が落ち着く。
それは眠りの入り口をくぐることになることと知っていたが、起き上がる気力は湧かなかった。
死にたいのかもしれない。
譲の中に潜む自殺願望が目覚めただけかもしれない。
良心が罪悪感を引っ張りだしてきたのかもしれない。
夢は願望だという。
ならば、夢の中で死ぬのは、譲の心の現われ。
兄と再会した今。
自分の存在価値など、ないようなもの。
あの兄ならば、彼女を何だかんだと言いながら、守りきってくれるだろう。
必要ないのだ。
兄のスペアカード。
『譲る』ために最初から用意されていた。
運命。
それが譲の運命なのだ。
泣くことも、笑うこともできない。
どんな表情をすればいいのか、わからない。
考えは劣等感という言葉だけでは表せない。
誰かに、他ならぬ彼女に必要とされたい。
譲は目を開け、月を眺める。
手を伸ばす。
助けて欲しかった。
迷路のような思考から、連れ出して欲しかった。
ひたひた
無防備に廂を歩く足音。
板の間に伝わる振動と、気配。
そっと混ざり合う温もり。
譲はぎこちなく自分の右手の先を見た。
月のように白い手が、譲の手を握っていた。
「せ……先輩」
「譲くん、大丈夫?」
望美は微笑んだ。
思いがけないほど、綺麗な笑顔だった。
少女の顔と握られた手を交互に見比べる。
「ど……して、ここに」
少年は上体を起こす。
夢を見ているのだろうか。
月が見せた幻想だろうか。
「誕生日、おめでとう。譲くん」
「え?」
「もう子の刻でしょ。
月があの位置だから。
今日は、譲くんの誕生日だよ。
一番にお祝いの言葉、言おうと思って」
だから、譲くんが起きていて良かった。と少女は笑う。
「……そのために?」
声がかすれた。
大切な少女の言葉なのに、信じられなかった。
「あっちの世界ではこれぐらいの時間まで起きてたでしょ。
おめでとうメールしてたもん」
「でも、こことあちらでは世界が違います。
夜更かしして、体調を崩しても知りませんよ」
これは都合が良すぎる夢だ。
願望が幻を脳の中で再構成する。
日中、あれだけ動き回って、夜中に起きているはずがない。
自分の誕生日なんかのために、彼女が起きているはずがない。
こちらとあちらでは、違いすぎる。
「同じだよ。譲くん」
つかまれた手が熱い。
そんなに強くつかんだら、少女の指が壊れてしまうのではないか。
先が白くなった爪先を見て思った。
か細い脈。
自分とは違うリズムを刻んでいる。
肌越しに伝わってくる。
「今日が譲くんの誕生日だってことは変わらないよ」
望美は断言した。
何て力強い響きだろうか。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
何て綺麗な言葉だろう。
「譲くんに会えて、嬉しい」
言葉が胸に染みこむ。
微熱を帯びながら、じんわりと広がっていく。
ささくれだった譲の心に、痛いぐらいに満ちていく。
泣きたいような、笑いたいような気分だった。
この人に必要とされて、嬉しい。
優しい人だから、知り合った全員に同じことを言うだろう。
それでも嬉しい。
今日だけは、譲だけの言葉なのだ。
つないだ手が熱くて、手の平が汗ばむ。
それを、不快と感じなかった。
「ありがとうございます」
あなたはやっぱり月のような人だ。
とても綺麗で、強い。
そう、少年は確信した。
投稿作品 [有川譲生誕祭2006 小柚] 遙かなる時空の中でTOPへ戻る