季節は移ろいゆく。
花で満たされた院子も寂しくなってきた。
戦の合間の平和に二人は連れ立って散策に来た。
夫は考え事をしているのか、寡黙だった。
足音だけが沈黙を彩っていた。
甄姫は曹丕の横顔を仰ぐ。
独占できて幸福に満たされる。
「愛している」
違和感のある言葉に甄姫は過敏に反応した。
二人は立ち止まった。
冷たい風が吹き抜けていった。
「そう言ってくれないか?」
平然とした顔のまま、夫は言った。
何もかも焼き尽くす蒼い焔だとたとえられる瞳は、平素と変わらない。
どこまでも他人行儀で、他者を寄せつけない。
「まあ」
甄姫は相好を崩す。
おかしくて仕方がなかった。
我が子にしてやるように、夫を優しく抱きしめる。
甄姫が腕を広げても、けっして抱きかかえることはできない大きな体を抱く。
胸に頬をよせ、その背をなでる。
「我が君の口から初めて聞きましたわ」
甄姫は顔を上げ、夫を見つめる。
気がついていないのだろう。
不思議そうにしている瞳が憎たらしいと思ってしまう。
「愛している」
甄姫は綺麗に微笑んでみせる。
「という言葉ですわ」
意地悪したくなる。
つい、と視線がそらされる。
「そうであったか?」
「そうですわ。
ずるいですわね。
ご自分ばかり欲しいだなんて」
甄姫はクスクスと笑う。
「確かに」
変に真面目なところがある夫はうなずいた。
「それが殿方ですわね。
もちろん、私は我が君を愛していますわ。
海と山に誓いをたてましょうか?」
「それは一生だな」
「ええ、私が死ぬまでの間ですわ。
ずっと我が君を愛し続けます」
「……もし。
いや。……無粋であったな」
「心変わりをしたときは、この命を差し上げます。
誓いというものは、そういうものですわ」
「何故、そうまで想ってくれる?」
「わかりませんの?」
「甄の言葉で、知りたい」
「我が君だから、ですわ」
甄姫がそう呼ぶ人物はこの世で一人だけだ。
自分の主と呼ぶに値する人物は一人だけだ。
「そうか」
曹丕の表情が優しくゆるむ。
この顔を知っている人物はどれほどいるのだろうか。
これほど傍で、幸せそうに微笑む顔を見られるのは自分だけだ。
優越感で身もだえするほど、甄姫の心は歓喜する。
「我が君の心にかないまして?」
「ああ」
と頷き、双眸に何かがよぎる。
「ところで、先ほどの言葉だが……。
私以外の人物には」
「こう見えても、私に好意を寄せる殿方は多いのですのよ。
人妻であろうと、状況に合わせて主義を曲げる女でも」
甄姫は曹丕から離れる。
色石を敷き詰められた道を数歩進んで、振り返る。
頭の天辺から足のつま先まで、視界に入れてもらえるように。
「この容貌に、皆さん目がくらむようですの」
胸を張って答える。
他者の気を引く姿かたちを持って生まれたことを悔やんでも仕方がない。
否定したところで、甄姫の見てくれは悪くなったりはしないのだ。
「なるほど。
では、婦人の鑑とたたえねばならぬな」
曹丕は言った。
衣が風をはらんでゆったりと広がる。
「それとも臣下の鑑のほうが良いか?」
戦いを知る手が甄姫の頬をなでる。
「私は贅沢な性質なのです。
どちらも、いただけますか?」
甄姫は微笑んだ。
「そなたは得がたい妻であり、失うことのできない臣下だ」
甘さの欠片もない声がささやく。
耳に心地よく甄姫は目を伏せる。
程なくして唇に控えめな感触がした。
「私の傍から、離れてくれるな」
くちづけの合間にもたらされた言葉に、胸がつかれる。
どんなに言葉を尽くしても、夫は甄姫の心を理解することはないだろう。
何度、愛していると告げても、疑うだろう。
深く冥い淵の端に、己が立っていることに気がつく。
けれど、そこで退却するほど、自分はか弱い女ではない。
孤独に震える魂ごと、甄姫は抱きしめた。