この季節らしく苛烈に晴れた日だった。
石畳を白く照らす太陽に甄姫は目を細める。
花瓶に活けられた花が気に入らない。
そう侍女たちを遠ざけて、回廊を渡り、城の中でも特に奥まった院子まで歩いてきた。
雰囲気を察したのか、途中ですれ違った下官たちは制止もしなければ、言葉をかけてくることもなかった。
熱した石の階段を踏みしめ、甄姫は院子に降りる。
風が通るせいか、室内よりも涼しいぐらいであった。
甄姫は墨のように暗い木陰を渡りつつ、百花の薫りを吸いこむ。
甘い空気で胸がいっぱいになる。
ふいに、南を思い起こさせる色をした花に目が止まった。
誰に命じられたわけでもないのに開く花たちには、妍を競う宮女とは異なる美しさがあった。
院子の花たちが有する美とて、野に咲く花とは違う造り物の美。
人の目を楽しませるために造られたモノであることには変わりがないはずなのに。
人語を解する花たちと似ているはずなのに、……どこか違う。
百花の薫りを分けてもらいながら、甄姫は院子を巡る。
大きな違いは、その……陽気さだろうか。
太陽の光を受けて咲く花には、陰りというものが見つけられない。
地面に落ちた墨色の影すら煌いている。
己も院子に咲く花のようにありたい、と甄姫は吐息をついた。
明るく、悩みもなく、自分の役割を全うする。
そのような花でいたい。
甄姫は立ち止まり、改めて周囲を見渡す。
花瓶に似合いの花を探すという口実で、院子まで来たのだ。
手ぶらで帰ったら、さらに侍女が萎縮するだろう。
黒檀の卓に置かれた花瓶に活けられていた薔薇に不満があったわけではない。
滴るような赤い花弁も、夢見るような甘い香りも、甄姫の部屋に似合いのものであっただろう。
一つの瑕疵もない。
欠点が一つないところに、甄姫は苛立ちを感じたのだ。
夫は趣味が良く、最高の物を用意させる。
何もかもが完璧で、蟻が穴を穿つこともできないほど隙がない。
与えられる完全さに、甄姫は息をつけなくなる。
あの薔薇のように、自分自身も部屋の飾り物ではないのだろうか。
そんな恐ろしい考えが過ぎったのだ。
甄姫は一度目を閉じ、それからゆっくりと開く。
花の宰相が居並ぶ区域から、さらに奥を目指して、甄姫は歩き出した。
心に過ぎる切れ端は、感情の押しつけにしかすぎない。ただの思い込みだ。
夫から聞いたわけではない。夫に直接、尋ねたわけではない。
曖昧な不安が心に影を落としただけ。
趣味の良さを感心すればいい。夫の美点なのだから。
最高の物が用意されることを素直に喜べばいい。それだけ自分は大切にされているのだから。
すぐにでも言い訳用の花を手折って、侍女に温かい言葉をかけて……。
甄姫の瞳はつとっと止まった。
青。
白、緑、赤で埋め尽くされる院子の中にある強烈な青。
どれほど青い空の下であろうと染まらない青。
白日に晒されても、なお鮮やかな衣。
曹魏の色だからではない。天が下された子だから、天そのものの色を纏っているのだ。
甄姫は息を飲みこんだ。
ただひとり、夫は立っていた。
気まぐれな風すらためらう。高慢な花すら遠慮する。威圧的な日差しすらにじり去ろうとする。
ひとり、曹丕は院子に立っていた。
甄姫は走り寄る。
一歩一歩がもどかしい。茂った葉が。足に絡む裳裾が。靴を喰む土が。甄姫を邪魔する。
「我が君!」
甄姫は叫んだ。
大きな声で呼ばなければ振り返させることができない、と感じたのだ。
「お傍に置いてください」
夫がひとりであることが悲しかったのではなく。
置いていかれそうになった己が哀れだったのではなく。
傍にいたい、と思った。
一瞬きでも長く、傍にいたいとそれだけを感じたのだ。
蒼焔のような双眸が甄姫を見下ろす。
ツキンッと胸が痛む。
夫の冷ややかな瞳は疑いを宿しているだけだった。
「私の命が果てるまで、お傍に置いて欲しいのです」
甄姫は曹丕の手を両手で握る。
たゆまぬ鍛錬で節くれだった指を、傷に墨がこびりついた手を包むように。
誰よりも働き者の手を離さずにすむように、甄姫は握る。
「それが私の幸せなのです」
趣味の良い部屋で待つのは嫌だった。
待つのが役目なら喜んで引き受けよう。
禍から遠ざけるための檻としての部屋でどうして待っていられるというのか。
「私の進む道は平坦ではない」
曹丕は口を開いた。
「はい」
だからこそ傍にいたい、と甄姫は微笑んだ。
「変った女だな」
ためいきにも似た口調で青年は言った。
「お嫌いですか?」
炎天下で咲く牡丹のように、水辺に佇む百合のように、艶やかに。
甄姫は意識しながら笑みを深くする。
自分の両手から逃れようとする努力家の手をやんわりととどめる。
曹丕は甄姫の手を注視する。
「事実を言っただけだ」
嫌いではない、と同じ意味の言葉を曹丕は口にした。
蒼い焔の双眸が甄姫を見つめる。
「どうぞ、私の死ぬまで。
いえ、私の死すらお役立てくださいませ。
魂まで我が君のものですわ」
言葉にしてしまうと、かさかさに干からびてしまうのはどうしてだろう。
身に押しとどめておけないほど、想いは溢れているのに。
味気ない響きになってしまうのは何故だろう。
甄姫は焦れる。
「その言葉を覚えておこう」
たっぷりと間を空けて、青年は言った。
「約束ですわよ」
「ああ」
曹丕の手が甄姫の手を握り返した。
それだけのことがとても嬉しくて、甄姫の胸は締めつけられる。
心地の良い胸の痛みだった。
◇◆◇◆◇
汗を拭うように強い風が駆けていく。
花弁を浚った風は香りまで甘く、目にも楽しい。
宙を舞った花弁がゆるゆると降ってくる。
白に薄紅に紅。風に色がついたようだった。
甄姫は吐息をついた。
ふいに夫が手を伸ばし、甄姫の髪にふれた。
「甄は薔薇が嫌いか?」
曹丕の手には紅の花弁。
風に舞った花弁が髪に引っかかっていたらしい。
「まあ
我が君が下さるものは何でも好きですわ」
甄姫は笑みを零す。
愛する夫がくれるものだ。
憎く思ったとしても、嫌いになることはできない。
ましてや、部屋に飾られていた花薔薇は非の打ち所のないものであった。
「薔薇は薫りが良く、花期が長い。
院子にはいつでも咲いている花だ」
夫の手から紅の花弁が落ちた。
「たくさん咲いていますわね」
甄姫は頷いた。
指の長さにも満たない花は、地上の星のように咲いている。
一つずつ数えていったら日が暮れてしまいそうなほどの数だ。
固い蕾のものもあれば、散りかけた花もある。
甄姫は瞳を瞬かせた。
卓に飾られた花は過不足なく咲いたものであった、と気がつく。
甄姫は夫の横顔を仰ぐ。
「ああ、咲いている」
曹丕は目を細めて言う。
夫はそれだけを言った。
甄姫はもどかしい想いを抱えながら、夫の肩に頬を寄せた。
幸せだと。
甄姫は強く感じた。
部屋に帰ったら、あの赤い花薔薇も違って見えるだろう。
そう思った。