空ろだ。
何もない。
ただ技巧だけがある。
名詩をつぎはぎして、不恰好に並べただけの詩が目の前にある。
想いが伝わることなく、ただ上滑りしているだけだ。
父の作る詩に、その雄大さは敵うはずもなく。
弟の作る詩に、その胸を打つような叙情性に敵うはずもなく。
そこにある漢詩は、体裁だけを取り繕ったような出来映えだ。
学べば、誰にでも作れる。
曹丕は書きつけた紙を握る。
手の平に感じる手触りは、乾いている。
かすかに皮膚をこする紙は、どこまでも他人だった。
才能には情などない。
生れ落ちたその時に、決まるだけだ。
努力しようとも、手に入れることはできない。
手を伸ばせば伸ばした分だけ、虚しくなるだけだ。
頭では理解しているものの、心が追いついていかない。
何故、詩を作ることを選ぶのだろうか。
弟に敵うはずがないとわかっているのに。
知っているのに。
諦めもせずに、書くことを選ぶのだろうか。
灰色の双眸は紙を見つめる。
紙も、墨も、曹丕が使わなければ、誰かの役に立ったのだろう。
こうして握りつぶされ、やがて引き裂かれずにすんだのだろう。
「不運なことだ」
己の元に来なければ、もっとマシな使い道をされただろうに。
紙や、墨だけではない。
心を持たないものだけではない。
柔らかな人の気配に、曹丕は顔を上げた。
妻が茶器を捧げ、衝立の奥から現れる。
戦場での剣呑さが偽りのように、佳人は微笑む。
桃の花だけしか知らぬような、匂うような美しさだ。
「お茶をお持ちしましたわ」
甄姫は卓の上に、茶器を置く。
気配りに満ちたそれは、とてもあたたかそうだった。
「ああ」
曹丕は紙から手を離し、茶器を手にした。
お茶の香りに、ほっとする。
心の隅々まで広がり、いらつきを癒してくれるようだった。
「反故ですの?」
そう言いながら、ほっそりとした指先が、紙を解いていく。
曹丕によって丸められたものが、その指によって元の姿を見せる。
よれた紙の上でも、墨の色は変わらない。
書かれた文字の並びは変わらない。
「新しい詩ですわね。
必要がないのなら、いただけますか?」
甄姫は尋ねる。
「そんなものをどうするつもりだ?」
役に立つとは思えない。
捨てられて当然のものだった。
「大切にいたします」
甄姫は紙を抱きかかえる。
曹丕からかばうように。
灰色の双眸は、妻を見つめる。
「我が君の作ったものですもの」
飴色の瞳が穏やかに笑う。
溶けるように甘い色合いだ。
「どこにでもあるような詩だ」
曹丕は口の端に笑みを浮かべる。
陳腐で、退屈で……。
己と同じ。
学べば、誰でもこのようになる。
それだけのものだ。
「でも、我が君は一人きりですわ。
我が君のものなら、何でも手に入れたい。
私は、とても貪欲な性質ですの」
「そんな詩が欲しいのなら、新しく作ろう」
手元に置かれるのなら、良いものがいい。
妻の美しさを克明に写し取り、素晴らしさを歌う詩が良い。
前に立ち、何も浮かんでこない技巧的な詩ではなく。
誰もが感嘆するような詩を。
それこそが、妻の手の内にあるのに相応しい。
「いいえ」
ゆるく揺られた頭に合わせて、金の歩揺が鳴る。
それは月の光よりもかすかな音色だ。
「この詩が欲しいのです」
「何故だ?」
「この詩は一つしかありません。
これからくださる詩とも違います。
今このときの、我が君の心がこもっていますもの」
「……心?」
曹丕はくりかえす。
あの不十分な詩のどこが良いのか、理解できない。
心など、どこにもない。
何も訴えてこない、その詩のどこが良いのか。
執着するほどのものでない。
益体にもつかぬことが書きつけられた紙でしかない。
価値などないのだ。
「私には無二の宝です。
必要とされている者の側にあることが、詩にとっても幸せでしょう。
だから、くださいませ」
「私の側は不幸せか?」
「程なく捨てられる運命よりは。
せっかく生み出されたのに、誰にも歌われず終わる。
かわいそうですわ」
あたたかな手が曹丕の手を包むように、重ねあわされる。
己と違う体温は、居心地の悪い、居心地の良さがある。
「この詩も、我が君も」
「……」
「そして、私も。
言葉を信じていただけませんか?」
甄姫が言う。
「出来の良い詩ではない」
「価値はそこだけではありません」
「子建はもっと素晴らしい詩を作るだろう」
曹丕は薄く笑った。
何度も、比べられた。
父の跡を継ぐのに必要なものは、文才ではない。
ほどほどにできれば、それでいい。
絶賛されるような詩を作る必要はないのだ。
歴史を紐解けばわかる。
文を好み、芸術を愛する王は、国を滅ぼしてしまう。
それゆえに、父は文才のない己を後継者として指名するであろう。
「では、何故。
我が君は、詩を作り続けるのですか?
弟君を負かせるためですの?」
手を振り払えないように、その眼差しから目を逸らすことができない。
強い眼差しだ。
迷いのないものは、いつでも綺麗なのだ。
自らが光り輝いている。
それに助けられ、それに慰められる。
「違う。
……作りたかったからだ」
初めて、詩の世界を知ったのはいつだっただろうか。
自分でも作りたいと思ったのは、いつのことだろうか。
遠い記憶だ。
幸せすぎて、ほろ苦い。
そんな記憶の欠片が胸を痛ませる。
「いただいても、よろしいですわね」
「どうして何度も尋ねる?」
「納得がいかないと、こだわりますでしょう?
私の見ていない隙に、この詩を破かれたら嫌です。
それに、我が君は一度口にした約束は破りません」
「よく知っているな」
自分以上に、自分を理解している者がいる。
それが不思議だった。
「はい」
甄姫は微笑み、うなずいた。
まるで欠けることを知らない、満ちた月のようだった。
その笑みの美しさを表現できるほどの才が、己にないことが悔やまれた。