誕生日

 世界は静かに流れていく。
 虫の音を聞きながら、空を仰ぐ。
 熊野は緑が濃い。
 呼吸が楽にできるような気がした。
 夜毎、リアルになっていく夢にうなされて、譲は目覚めた。
 少しでも生きているという実感が欲しくて濡れ縁まで、歩いてきた。
 はだしの足に板張りの床はひんやりとして心地よかった。
 時刻は子の刻だろうか。
 誰もが眠っている時間のせいか、世界で独りぼっちなような気がしてきた。
 譲は首を横に振る。
 どうにも感傷的になっている。
 これでは、元の世界に戻るなんて夢のまた夢だ。
 戦場にはいてはいけない。
 感情が削られて、磨耗していく。
 人殺しが当たり前になっていくなんて現実は苦しい。
 譲には、守らなきゃいけない存在がある。
 どんな困難が待っていても、あの笑顔を曇らせてはいけない。
 そう思う存在があるからこそ、譲は譲らしくあれるのかもしれない。
 心に暖かい気持ちが灯った。

「譲くん」

 大切な存在が自分の名を呼んだ。
 譲は驚いて、振り返った。
 先ほどまで考えていた幼なじみが立っていた。
 月の光に照らされた望美は、綺麗だった。
「探しちゃった」
 ひたひたと譲の傍まで歩いてくる。
「もう遅い時間ですよ。
 明日も早いんですから、寝なくても大丈夫なんですか?」
 心配から小言が出る。
「今日は特別だよ。
 ジャーン。
 春日望美スペシャル」
 と後ろ手から、皿を差し出した。
 皿の上には、果実が載った蒸しパンがあった。
「譲くん。
 お誕生日、おめでとう!」
 望美に言われて、誕生日になったことに気がつく。
 すっかり忘れていた。
「譲くんには敵わないけど、食べて欲しいな」
「ありがとうございます」
 目頭が熱くなってきた。
 毎年、祝ってもらっていたけれども、今年も祝ってもらえるとは思わなかった。
「朔にちょっと協力してもらっちゃった。
 食べれる味にはなっているはず」
 望美は座って、皿を板の上に置く。
 譲も座る。
 向かいあうと、距離が近い。
 鼓動が早く鳴るのが、わかる。
「半分こにしませんか?」
 譲は声が上ずるのを抑えて言った。
「でも、これは譲くんのために作ったものだし」
「独りで食べるよりも、誰かと食べたいんです。
 そのほうが祝ってもらっているような気がするんです」
「そう?」
 望美は耳に髪をかける。
「じゃあ、半分こにしようか。
 どの辺りが半分かなぁ」
 白い手が蒸しパンを半分に割る。
「いただきます」
 譲は手を伸ばす。
 大切に食べる。
 涙が零れそうなぐらい素朴な味わいがした。
「美味しいです」
 譲は眼鏡のずれを直す。
「本当!
 頑張った甲斐があったな」
 望美も蒸しパンをかじる。
 笑顔が深まる。
 譲が守りたいものが増えていく。
「美味しいね」
 望美は言った。
「はい。とても美味しいです」
 時間が止まれば、いいと思った。
 この瞬間を永遠にしたいと思った。
 幸せすぎて、眠れない夜も瑣末なことのような気がした。
 異世界で迎える誕生日も悪くなかった。
 覚えていてくれた人がいた。
 それがいっとう大切な人だった。
 そんな幸運に酔いそうだった。


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