階段からキッチンまで降りてくる足音がした。
譲はためいきをついた。
「おお、良い匂いがするな」
想像した通りの台詞を言われた。
ここまで来ると、諦めの境地になる。
将臣がキッチンまでやってきた。
「望美にお返しか?」
できたてのマシュマロに手が伸びてきた。
「チョコレートをくれましたからね」
譲は言った。
「まめだなぁ」
「兄さんこそ、お返しはしないんですか?」
この兄がお返しにお菓子を渡しているところを見たことがなかった。
貰いっぱなしの姿が記憶にあった。
「だって、義理チョコだからな。
本命なら、まだしも」
将臣が譲の肩を叩く。
まるで、譲が本命チョコを貰っているような口ぶりだった。
「俺だって義理チョコですよ」
「そう思っているのは、お前だけだろうよ」
将臣はマシュマロをひとつ摘み上げる。
譲が止める間もなく、できたてのマシュマロは将臣の口の中に入ってしまった。
「お、腕を上げたんじゃないか?
店で売っても、遜色ない味だと思うぜ」
咀嚼しながら将臣は言った。
褒め言葉だったが、そんな褒め言葉はいらない。
一つ減ったマシュマロの方が貴重だった。
「先輩にあげるんですから、勝手に食べないでください」
眼鏡越しに譲はにらむ。
「俺、お返しのマシュマロよりもいいもん知っているぜ」
将臣はケラケラと笑う。
興味が惹かれて、文句を言うことをやめた。
「『先輩』をやめてやれば、望美はもっと喜ぶぜ。
昔のように『望美ちゃん』と呼んでやれば、お返しよりも笑顔になるだろうよ」
そう言うと、将臣はマシュマロを摘まみ食いする。
聞いた自分が馬鹿だった。
耳を傾けた時間が無駄だった。
名前を呼べるのなら、名前を呼んでいる。
譲が『先輩』と呼ぶのは境界線だった。
これ以上、期待をしてはいけない。
優しい人だから、幼馴染を無下にすることはないだろう。
だからこそ、恋人でもなんでもない自分が呼ぶことは許されない。
そう思っていた。
「このマシュマロは俺がもらっていく」
将臣は言った。
「どういう理論ですか?」
「言い訳ができないだろう?」
そう言うと、将臣はマシュマロが並ぶプレートを取り上げる。
そして、来た道を引き返していく。
また丸めこまれてしまった。
今から再び作るには材料が足りない。
退路は完全に断たれた。
今年はできあいのものか。
そう思うと、気が楽になった。
男からもらう手作りのお菓子だなんて、重たすぎるだろう。
譲はエプロンを外して、駅前に向かった。
先輩がご贔屓のケーキ屋さんに、ホワイトデー向けのクッキーが売っているはずだ。
それを買いに、譲は財布の中身を確認して、歩き出した。
店につくと、顔なじみの店員が頭を下げた。
「ホワイトデー用の商品、全部売れちゃったんです」
すまなそうに店員が言った。
今年は雑誌で取り上げられたために、客が殺到したのだろう。
譲は計算不足だったことを悔いた。
ここまで来ると、誰かに呪いをかけられたような気がする。
ためいきを喉で噛み殺し、笑顔を浮かべる。
「じゃあ、ケーキを。
そこのホワイトチョコのケーキをひとつ。
包んでもらえますか?」
と譲は言った。
◇◆◇◆◇
帰り道、望美が帰宅しているか携帯電話で確認する。
電話には望美の母親が出た。
今日は一日、家にいたそうだ。
これから向かうことを伝えて譲は電話を切った。
インターフォンを鳴らすとにぎやかな音が聞こえてきた。
譲は眉をひそめる。
予想通り望美がドアを開いた。
「譲くん、こんばんは」
嬉しそうに望美は笑った。
その様子に、譲の胸が痛んだ。
「ホワイトデーのお返しです。
今年は、手作りでなくてすみません」
譲は紙箱を差し出す。
「ここのケーキ好き!
ありがとう、譲くん。
でも、珍しいね。
もしかして将臣くんに食べられちゃった?」
望美は朗らかに言った。
本当は手作りのマシュマロを食べて欲しかった。
名前を呼べない分だけ、気持ちをこめた菓子を食べて欲しかった。
「そうなんです」
「気にしないで。
ここのケーキも好きだから」
望美は言った。
「上がってもらったら、どう?」
望美の母親が顔を出す。
「用事はそれだけなので。
これで失礼します」
譲は頭を下げた。
「せっかくだからお茶でもどう?」
望美も尋ねる。
「帰って、兄さんを怒らないと」
譲は、もっともらしい理由をつける。
「そっか。ちょっと残念。
譲くんと話したかったけれど」
名残惜しそうに、望美は言った。
「それじゃあ」
と譲は背を向けた。
それから小さく呟いた。
たぶん、聞こえないぐらい小さな声で。
「ハッピーホワイトデー。望美ちゃん」
自己満足だった。
「……譲くん?
今、なんて」
望美が言った。
「なんでも、ありませんよ」
譲が振り返ると、顔を真っ赤にした望美がいた。
どうやら聞こえてしまったようだ。
将臣が言った通りだった。
マシュマロのように柔らかく白い頬を染めて
「もう一度、言って!」
望美は懇願した。
譲は耳まで赤くなる音を聞いた。
「なんでもありませんよ!
失礼します」
譲は強引に立ち去った。
望美は、忘れられないほどの笑顔だった。
こちらまで照れるような、そんな笑顔を浮かべていた。
ただ恥ずかしくて、面と向かって名前を呼べるようになるのは、ずっと先だと譲は思った。