両親不在の遅い昼下がり。
寒さも緩み、窓から差しこむ陽光も明るい気がした。
昼食は、簡単なものですました。
腹に入ればそれでいい、という兄に気遣う必要はない。
使った食器を洗うのは譲の役割だった。
いつの頃からそうだったのだろうか。
将臣がキッチンに立つことはなかった。
今もダイニングに置かれたソファでくつろいでいた。
譲は当たり前のように皿洗いをしていた。
それも、もうすぐに終わる。
終わったら復習をしなければならないな、と思った。
異世界での空白の時間。
現代の勉強をする暇などなかった。
ここで成績を落とすと、両親に心配をかけてしまう。
要領のいい兄と違い、コツコツと努力を重ねなければならない。
テレビの音が消された。
静かになった部屋で、将臣が不意に口を開いた。
「いつだって、あいつの一番は決まってたよ」
あいつとは共通の幼馴染のことだとすぐにわかった。
「自慢、ですか。
先輩は兄さんを頼っていましたからね」
皿を拭いていた譲の手が止まる。
「そんなことだから、見えてるもんも見えないんだよ。
望美の一番はお前だよ」
そんな夢みたいなことを兄が言う。
「どこからそんな論理になるんですか?」
譲は平静を保つように、次々と皿を拭いていく。
「俺と離れていても何にも言わなかったのに。
お前が離れた途端、泣き出した。
いつものパターンだ」
「……それは俺が頼りないからだけで」
「少しは自分の気持ちに正直になってみたらどうなんだ?
そうすりやぁ、見えてくるだろうよ」
将臣は立ちあがる音がした。
譲は振り返る。
「兄さん、どこへ」
「ちょっと、そこまでな」
明るい笑顔で将臣はダイニングから出て行った。
残された譲は複雑な表情を浮かべながら
「いつも自分勝手だ」
と呟いた。
◇◆◇◆◇
インターフォンが鳴った。
届け物だろうか。
譲は無意識にドアを開けて、思考が停止した。
幼馴染の少女が立っていた。
手に持っていた紙袋を差し出す。
「ハッピーバレンタイン」
明るい笑顔で望美は言った。
「今年は、ちょっと気張りました。
試食して、一番おいしいチョコレートを選んできたの」
望美は言う。
頭が回らない。
いかにも本命チョコレートに見える紙袋だ。
有名店のロゴが入っていた。
「お茶でも淹れましょうか?」
譲は言った。
「全部、譲くんが食べていいんだよ」
望美は不思議そうな顔で言う。
「いえ、そんなわけにはいきません。
美味しいものは、半分こにした方がより一層美味しく感じるはずです。
どうぞ、上がってください」
譲はしどろもどろに言う。
全く予想がつかない展開に、頭が麻痺している。
「譲くんに全部、食べてほしいから、お茶だけいただくね。
おじゃましまーす」
望美は言った。
紙袋を譲に差し出す。
受け取る時に手がふれあった。
思わず紙袋を落とすところだった。
大切な人が自分のために選んでくれた物だ。
落とさなくて良かった、と譲は安堵した。
望美は玄関に靴をそろえて脱ぐ。
「よ、用意してきますね。
ソファに座っていてください」
譲はキッチンに向かう。
チョコレートに合うようにセイロンの紅茶の茶葉を選ぶ。
「ありがとう」
「兄さんなら出かけて行きました。
帰る時間も言っていかなかったので、いつ帰るか……」
「じゃあ、二人っきりなんだね」
さりげなく望美は言った。
その言葉に、譲は動揺する。
手元が狂って、ポットに茶葉を多めに入れてしまった。
「今年から義理チョコは止めることにしたの」
望美は爆弾発言をする。
「どういう意味ですか?」
譲は尋ねた。
ほんの少しの期待をして。
ケトルが鳴る。
火を止めて、熱湯をポットに入れる。
充分茶葉を蒸らしてから、来客用のティーカップに注ぐ。
紅い色がチャイナボーンのティーカップに映える。
「そのまんまの意味だよ。
本命だけにチョコレートを用意したの」
望美は真っ直ぐ譲を見つめた。
何度、思い浮かべた願望だろう。
それが叶っていたなんて思いもしなかった。
「どうぞ」
譲は声が震えるのがわかった。
「だから、チョコレートは一人で食べてね」
望美はティーカップを手にする。
「いい香りの紅茶だね」
いつもの口調で言われたから、譲にはどう答えればいいのかわからなかった。
願いが叶った、というのに実感が湧かない。
「私のとっての一番は譲くんだよ」
望美は、どこか遠い目をして微笑んだ。
まるで痛みを感じているような視線だった。
こんなにも嬉しい言葉を言われたのに、それが気になった。
ただチャンスは今だけだ。
「春も夏も秋も冬も、想っているのは先輩だけです」
譲は大切な少女に答えた。
白い頬に涙が伝う。
望美の長い睫毛が瞬き、ポロポロと涙を零す。
「嬉しい」
泣きながら望美は言った。
「俺にできることは何でもします。
だから、どうか一人で悩まないでください」
譲はまごつきながら言う。
「今、とっても幸せだよ。
だって大好きだった譲くんと両想いだってわかったんだから。
これは嬉し涙だよ」
望美は泣き笑いをした。
「そうですか」
いまいち納得できないけれども譲は言った。
ゆっくりと暮れていく夕陽に、心を溶かしてしまいたいと思った。
やがて望美は泣き止み、笑った。
それがあまりにも美しかったから、譲の心臓は跳ねた。
長い片想いの終わりだった。
これからは二人の恋の始まりだった。