多重喪失

 幸鷹は同じものを二度、失った。
 それは「世界」だった。
 育んだ絆ごと、絶たれた。
 一度目は予期できないほどに、唐突に。
 二度目は悩むほどの猶予はなく。
 失ったものは返ってくることはない。


「幸鷹さん」
 ためらいがちに名を呼ばれる。
 いつの間にか、傍らに華奢な少女がやってきていた。
 考え事に集中していたせいだろう。
 気がつかなかった。
 少女は微笑らしきものを浮かべると、幸鷹の隣りに腰を下ろした。
「幸鷹さん」
 少女は決意したように、顔を上げる。
 守ってやらなければ、かそけき音を立てて、崩れてしまうような、細く小さな女性だ。
 けれども、その身に龍神を宿して、魂を砕かれなかった。
 幸鷹が思うよりも、ずっと『強い』女性だ。
「本当に、戻ってきて良かったんですか?」
 こんなときでも少女は目を逸らさない。
 青年を真っ直ぐに見つめる。
 硝子のように、パリンっとは割れない。
 深い色の瞳が青年の心に問う。
「後悔しないといえば嘘になります」
 幸鷹は誤魔化さずに答えた。
 ひとときの慰めや偽りは、二人の間には不必要なものだ。
「今までの自分を否定することになります」
 二つの世界を知る自分を否定できない。
「でも、その後悔ごと、私は望んだのです。
 あなたの隣りにいることを」
 幸鷹は花梨を見つ返す。
 記憶が戻ったとき、帰ることは思いつかなかった。
 育まれた絆を断ち切って、今の自分の捨てて、戻った先にあるのは……長い空白だ。
 幸鷹の知る「世界」は、もう消失している。
 帰る場所ではなくなっている。

 それでも。

「だから、気にしないでくださいね。
 ……花梨」
 幸鷹は微笑むことができた。
 これから先、何度でも、あの異世界を思い返すだろう。
 後悔は波のように、寄せては返すだろう。
「え!」
 花梨の顔に驚きが広がる。
「それとも以前のように、神子殿とお呼びしたほうがよろしいでしょうか?
 こちらの世界に、合わせたつもりだったのですが」
 この世界で生きていくのだ。
 ずっと。生命が尽きるその日まで。
「花梨。って呼んでください。
 もう神子じゃありません。
 ただの高校生、高倉花梨です」
 少女は笑った。
「では、そのように」
 幸鷹は言った。


 幸鷹は二重喪失を味わった。
 故郷を失い、記憶を失った。
 三度目の喪失は、耐えられそうになかった。
 自分の「世界」となっている少女との絆の消失。
 だから、自分の意思で、少女の「世界」に行くことを選んだ。
 帰ってきた、のではない。
 花梨の「世界」に、幸鷹はやってきたのだ。
 隣りにいるために。
 同じものを見て、その感情を分かち合うために。
 この「世界」に来ることを選んだのだ。

 後悔するのは、失ったものが愛おしかったから。
 後悔するのは、戻らない日々が幸せだったから。
 愛されていたから、その分だけ。
 愛していたから、その分だけ。
 ……想う。
 今の自分を作り上げた、すべての事象が愛しいから。
 思い返し、懐かしむ。

 少女に出会えたことを感謝するために――。


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