春休みも半分終わるころ、高倉花梨は暇だった。
他の長期休暇と違い、春休みには『宿題』がない。始業式の次の日には、実力テストが待っているが、頼りのなる彼氏のおかげか、成績のほうは安定していた。
それどころか理数系は一学年先の問題も解けるようになってきた。
好きな人が好きなものを知りたい、というとても不純で、やる気につながる動機は偉大だった。
最初こそは二人の年齢差に渋っていた両親も、このごろは「幸鷹さんとはどうなの?」と訊いてくる状態だった。
同い年の子たちとは少し違う経験をした花梨は、とても恵まれた生活をしていた。
不満は…………ないと言えたら、きっと幸せだった。
花梨はためいきをついた。
赤いレンガ道を見つめながら少女は歩く。時たま、すれ違う人たちの足元は仲良しだ。
大きなお父さんの革靴とその半分ぐらいしかない子どもスニーカーに、お母さんのおしゃれなローヒールだったり。
軽快で都会的なスニーカーの隣には、春色のミュールだったり。
いつもよりも早い桜の開花に、誰もが足早に自然公園に向かっていく。
花梨は鳴らない携帯電話を気にしながら、桜の名所へ向かう。
一人で。
何度目かわからなくなるようなためいきのために、息を吸い込んで……花梨は空を見上げた。
綿のように白い雲とほんわかとした色の青い空が桜の額越しに見えた。
温度のない雪のように白い桜は、ここが現代なのだと再確認させる。
京とは違う色の桜、だという。
秋と冬の光景しか知らない花梨に、幸鷹は懐かしそうな目をして教えてくれた。
どちらの世界を話すにも、お互いしかいなかった。
住み慣れた現代を語るのも。
呼び込まれた異世界の『京』を語るのも。
同じような境遇の二人だったから、誰よりも理解しあえた。
他の誰かに話しても、おそらくは気の毒そうな……同情しかしてもらえない。と気がついてから、花梨と幸鷹の関係は強固となった。
必要だった。
自分よりも、自分に必要な人になっていた。
ドラマで見るような恋人たちや、同級生たちの彼氏彼女とは違う。
一生、続くような関係だった。
甘くもないし、苦くもない。
必死で、手放せなくって、もっとわかりづらい感情。
一緒にいれたら楽しいし、離れていたら寂しい。
会えない時間は、何をしているんだろうと幸鷹のことばかりを考えている。
恋に似ているのだけれど、恋じゃない。
好きだけど、好きという言葉だけじゃ足りない。
大切な人で……たぶん、一生の人。
たいした人生を生きていないけれど、もう二度と出会えない人。
花梨は、大きく息を吐き出した。
桜は咲いたらすぐ散ってしまうから。
今日は良い天気だし。
用事がなくって、暇だから。
そう言い訳するように家を出たけれど、気分転換にもならない。
ただ、当てもなく歩いているだけだった。
満開に近づく桜のおかげで、不審な目で見られることはないけれど。
「帰ろうかな」
花梨は右手の中の携帯電話を意識する。
温度のないそれは、花梨の体温と同じになっていた。
どこにいても、考えてしまうなら、家の中にいても一緒。
会えない時間の分だけ、思い出してしまう。
京にいるころは、こんな悩みを抱えたことはなかった。
毎日のように会っていた。
携帯電話のように便利なものはなかったかれど、寂しさは花に託された文が埋めてくれた。
不便だから、忙しさは目につかなかった。
光の速度で伝えてくれるという携帯電話が鳴らないから、花梨の寂しさはつのる。
忙しい……好きな人がどうしているのか。
迷惑をかけてしまうから、自分からはそんなにかけられない。
メールを、毎日2通出すのも、勇気がいる。
「おはよう」と「おやすみなさい」。
返事がすぐに返ってこないから、余計に電話がかけづらくなる。
花梨は思いを振り切るように、顔を上げた。
桜が綺麗だった。だから、写真を撮って、メールに添付して送ろうと思った。
手の中の携帯電話が鳴った。
着信音は指定してある。
慌てて、届いたメールを確認する。
添付されていた写真は、花梨が撮ろうとしていたものと良く似た構図だった。
青い空に咲く桜の写真……それに、この先にある公園のベンチ。
たった一本の桜を鑑賞するために置いてあるようなベンチだった。
公園の奥のほうにあって、近くにあるのは松ばっかりで、他に咲くような花もなく、人気のない場所。
ずいぶん前のデートで、ベンチを発見したときは、桜のつぼみも見つけられないころだったから、花梨は首をかしげた。それをスラスラと名探偵のように推理したのは幸鷹だった。
「桜が咲くころに、また来ましょう」という言葉と優しげな微笑みを、花梨は覚えていた。
目的地はすぐ側だ。
花梨は、走り出してた。
短くて意味深なメールの文章が気になった。
たまにしか鳴らない指定着信音。
手紙のように長いメールではなく、短い言葉。
それに驚き、全力疾走した。
帰ってきてからは忘れていた苦しさが体に降りかかる。
体育の時だって、こんなに真剣に走らなかった。
なりふり構わずに走って、会いたかった人を見て……花梨は久しぶりに怒鳴った。
「嘘をつきましたね、幸鷹さん!」
ベンチの前で待っていた青年は、穏やかに微笑む。
「嘘ではありませんよ」
幸鷹は言った。
「こんなメール! ……驚きました」
花梨は息を整えて言った。
携帯電話の液晶画面を突きつける。
「あなたに会えなくって『死にそう』でしたよ」
「……でもっ!」
「今日は、ささやかな嘘が許される日だと思っていたんですが」
違いますか? と幸鷹は尋ねる。
「……。だからって」
花梨は液晶画面の端に表示されている日付を見て、やっぱり納得はできなかった。
4月1日。
「ついていいのは、すぐにバレるような嘘だけです」
「嬉しいですね。
そんなに心配してもらえたなんて」
「次はだまされません」
キッパリと花梨は言った。
「今日は、お暇ですか?
よろしければ、これから花見でもしませんか?」
幸鷹はベンチを指し示す。
写真はここから撮ったものなのだろう。同じ構図だった。
いつから、幸鷹はここで待っていたのだろう。
……嘘をつくために。
現代に帰ってきてから、より忙しくなったのに。
花梨をだますために。今日を楽しむために。
「嘘じゃないですよね」
意地悪く確認した。
「嘘だったら困ります」
青年は真剣に言った。
花梨の気持ちは、空の雲のようにふわっと軽くなった。
会えなくて積もっていった寂しさは、春の日差しに溶ける雪のように、消えた。
話がしたかった。
共感したかった。
幸鷹がいない間は、ちゃんと生きていなかった。
だから、花梨だって『死にそう』だったのだ。
……同じだった。
「はい!」
機嫌よく花梨は微笑んだ。