「やあ」
御簾が揺れ、秋風の香りが漂った。
書き物をしていた少女は、手を止めて、向き直る。
「どんなご用ですか?
ずいぶんと夜が更けましたが」
藤姫はいつものように、上背のある公達を見上げた。
女人だったら蕩けそうになるという笑みを浮かべて、友雅は藤姫の前に座った。
まるで、それが当然のように。
友雅にとって、藤姫は裳着もすましていない子どもに映るのだろうか。
いつまでも。
「君に贈り物をしようと思って、やってきたのだよ」
友雅は言った。
「藪から棒になんでしょうか?」
藤姫の口調は冷たいものになる。
それを気にした風ではなく、友雅は笑顔のままだ。
よっぽど上機嫌なのだろう。
「今日は君の誕生日と私の誕生日の間だろう」
友雅は紙扇をパタパタと開く。
「まあ、覚えていらっしゃったのですね」
少女は大きな目をさらに大きくする。
「あれほど鮮やかな女人だ。
何年たっても忘れられないだろう」
友雅は紙扇をあおぐ。
癖の強い髪が揺れた。
「真ん中ばーすでー、でしたね」
口にしたら藤姫の心が寂しさでいっぱいになった。
今はいない人を偲ぶ。
「どうして止めなかったのですか?」
「おや、まるで私と神子殿が想い合うような関係だったような口ぶりだね」
友雅は目を丸くする。
「違うのですか?」
藤姫は鋭く、問うた。
公達は視線をゆっくりと逸らした。
手元の紙扇を閉じていく。
「……確かに、情熱を思い出せた女人だったが、それだけだよ」
言っている言葉と表情が食い違っていた。
「恋ではなかったのですか?」
意外な気がして藤姫は問いを重ねる。
龍神の神子と八葉という関係以上に、少女には見えていた。
まるで物語に出てくる恋のように。
「そうだね。
私に変化をもたらしたけれども、それだけだった。
天女は天界へ帰るのが一番だ」
懐かしい、と思うけれどね、と付け足すように友雅は言った。
恋ではない。
そうは言ったけれども、逸らした視線が肯定するようだった。
「いつまでも忘れないように、と」
と友雅が絵巻物を差し出した。
紙扇を静かに閉じると、絵巻物を開く。
そこには、在りし日の龍神の神子がいた。
活き活きとした龍神の神子の活躍が描かれていた。
「記録を残すのは、星の一族だけではないよ」
友雅は誇らしげに言った。
「素晴らしいですわね」
藤姫の口から嘆息がもれた。
「気に入ってくれたのなら光栄だ。
こうして残しておけば、いつまでも覚えていられるだろう?
これからはこの絵巻を観ては懐かしもう。
今はいない人に」
友雅は柔らかに微笑んだ。
その笑顔が痛々しかった。
「……そうですわね」
藤姫は目を半ば伏せて言った。
今にも龍神の神子の明るい笑い声が聞こえてきそうだった。
失ってしまった。
そのことが悲しくもあった。
過ごした日々を胸に抱えて、星の一族としての役目を果たそうと思った。
それが藤姫にできる唯一のことだったから。
ほろ苦い真ん中ばーすでーとなった。
「浮かない顔だね。
喜んでほしくて用意したのに」
友雅は言った。
「もちろん、嬉しいですわ」
藤姫は取り繕う。
そんなことができるほど月日は流れた。
龍神の神子を覚えている京の民はどれほどいるだろう。
ただの天変地異だった、と歴史は語るだろう。
八葉も、それぞれの役目に戻っていった。
土御門邸に訪れるのは、友雅ぐらいだろう。
そのことが、どうしようもなく寂しかった。
きっとこれから先、忘れていく時間が長くなっていくのだろう。
それでも、ふいに思い出す。
鮮やかな活躍と共に。
「ありがとうございます」
藤姫は微笑んだ。
「どういたしまして。
用件もすんだところで、私はおいとまさせていただくよ。
君に悪い噂が立つといけないからね」
友雅は立ちあがった。
藤姫も立ちあがる。
「お気遣い、ありがとうございました。
お礼の品を用意させていただきますわね」
御簾の間近まで藤姫は公達を見送る。
「……お礼。
そう言うつもりではなかったのだけれども。
そうだね、これで充分だ」
と友雅は藤姫の長い髪を一房、より分ける。
そして、そこに口づけを落とした。
「友雅殿!
お戯れすぎますわ!」
「ははは。
やっぱり君はそういう表情が似合う。
これからも姉のように、妹のようにいてほしい」
友雅は言った。
その瞳には愉快そうな光が宿っていた。
楽しんでいると同時に、気を使ってくれたのだと藤姫は気がついた。
それ以上、言葉を告げることができなくなってしまった。
「また近いうちに訪れるよ」
友雅は髪を手放した。
さらさらと流れた髪は、絆が別たれていくように感じた。
「そんなまじまじと見られると、期待してしまうよ」
友雅は屈んで藤姫の耳元で
「星の姫」
と甘くささやいた。
「もう、早くお帰りください!」
藤姫は友雅の背を押した。
「残念だ。
寂しいと引き止めてほしいぐらいなのに」
友雅は藤姫に笑いかけながら、御簾をくぐった。
秋風の香りが残った部屋で、藤姫は己の手をじっと見た。
小さく、無力な手だった。
ためいきが零れた。
早く大人になりたいと思った。