秋風が揺らすは藤波

 御簾を巻き上げる音と共に、秋風が薫った。
 待つつもりがないというのに簾が動き、それが秋風の香りだというのが皮肉に感じる。
 夏も始まったばかりで、実りの季節を迎えるのには早すぎる。
 深い香りに稚い少女は書き物の手を休める。
「よろしいかな?」
 父とは違う艶のある声が尋ねる。
 顔を上げると、背の高い公達と目が合った。
 萎えた白の衣を涼しげにまとう立ち姿は、女房たちの噂話を聞かずともわかる華やかさがあった。
 この季節の空を一掃するような明るさが部屋に満ちる。
 一瞬、目を奪われたことに恥じながら
「嫌だと申し上げたらお帰りくださいますの?」
 藤姫は姿勢を正す。
 チリンと金属の音が耳近くで響いた。
 友雅は意味ありげな笑みを浮かべると、扇をパタパタと開く。
 焚きこめられた侍従の香が、深く染み渡る。
 甘いだけではなく、募るような寂しさを宿した香りは、少女を絡み取ろうとする。
「情のないお言葉だ。
 通う男をそう邪険にするものではないよ」
 恋情とは遠い瞳で、男は藤姫を見つめる。
「友雅殿。
 そのような悪ふざけをするのでしたら、他にお当たりくださいませ」
 少女はきっぱりと言った。
「本当にあなたは冷たい。
 私ほど、あなたを思っている者はいないというのに」
 そう口にしながら、男は藤姫の近くまでやってきて座る。
 少女は逃げ出したい気持ちを抑えて、公達をにらみつける。
「何のご用でしょうか?」
 早まる鼓動を悟られないように、気づかれないように。
 藤姫は静かに尋ねる。
「天気が良かったから足を伸ばしただけだよ」
 気にさわったようだねと友雅は笑った。
「天気ですか……?」
 藤姫は頬に手を当てて考えこむ。
 部屋に入ってくる日差しは弱々しく、空は鈍い色をしていた。
 去年の今時分と比べれば良い天気かもしれないけれども……。
「こういった天気だと花も、いっそう美しく見える」
 しみじみと公達は言う。
 ためいきが零れ落ちるほど、美しい声音で。
 木石も心動かされるような優しい響きがした。
「以前とおっしゃっていたことが違いますわ。
 友雅殿は『晴れた日こそ、花は美しい。』と」
「よく覚えておいでだね。
 あなたの心の片隅においてもらえたことを光栄に思わなくては」
 楽しげに友雅は言う。
「今、思い出しただけです」
「あれは桜の季節だった。
 桜は晴れの下が美しい。
 けれども、あなたのような花は憂いがある空の下も風情があるものだよ」
 友雅は言った。
 稚い少女は眉をひそめる。
「信じていない顔だね」
「友雅殿の言葉を信じたあまり、泣いた女人は数知れずとお聞きしますもの」
「あなたも泣いてくれたのかな?」
「いいえ」
 少女は即答した。
「手厳しい。
 強情なのが、またあなたの魅力だけれど。
 あまり冷たくあしらっていると、男が寄りつかなくなってしまうよ」
「ちょうど良いですわ。
 今の私には星の一族として成さなければならないことが、たくさんありますもの」
「なるほど。
 では、その役目が終わったらお相手を願おうか」
 公達はパチンと扇を閉じた。
「それで、今日はどのようなご用向きでしたの?」
 進まない話に苛立ちながら、藤姫は尋ねた。
「久しぶりの曇り空で、花が美しかったからね。
 あなたに見せたくなったのだよ」
 友雅は袖から一房の花を取り出すと、書机の上に置く。
 書き途中であった紙の上に、ハラリと花弁が散る。
 匂やかな紫の美しい花が、そこに咲いていた。
 少女は目を見張る。
「晴れの下でも美しいけれど、曇り空でも美しい。
 まるで、あなたのような花だろう」
 藤の花を差し出した公達は得意げに言った。
「友雅殿にしては安易ですわね」
「藤は嫌いかな?」
「そのような問いは卑怯ですわ」
 少女は書机の花を凝視する。
「次は我が家の藤波を見ていただきたい」
「そのような甘いお言葉は、相応しい方々に差し上げてくださいませ。
 私には返すような歌もございませんもの」
 藤姫は袖の中で震える手を握りしめ、顔を上げた。
 励ますように、金属の冠が高い音を奏でる。
「一つも?」
 試すように友雅が尋ねる。
「ええ、一つもございません」
 稚い少女は答えた。
 秋風は勝手に簾を揺らしていくだけなのだ。
 忍びやかに。
 それでいて冷たく。
「では『いつか』を待つとしよう。
 雪が積もっても、緑の葉の色は失わないからね。
 色よい返事を期待しておくよ」
 待つを松に掛けて、公達は微笑んだ。
 それは女房たちに向けるような表情ではなかったから、少女は
「調子の良い言葉ばかりを並べているような方には、差し上げる返事はございません」
 はっきりと告げた。
「あなたの気が変わる瞬間が楽しみだよ」
 友雅は笑みを浮かべたまま、すっと立ち上がる。
 チリンと耳元で冠の飾りが鳴った。
 公達から目を離せないでいる自分に困惑しながらも、藤姫は言う。
「そのような機会はございませんわ」
「年寄りの楽しみを奪うものではないよ。
 それでは、また今度」
 束縛されない風のように、公達は御簾をくぐって外へ出て行く。
 勝手さをなじったところで、意味のない。
 書卓の上で薫る藤の花よりも、色濃く残る秋風の香りに、藤姫はためいきをついた。


遙かなる時空の中でTOPへ戻る