七夕

 上弦の月。
 控えめな月明に、星がより輝いて見える。
 キラキラと星の光が雫になって地上へ降ってきそうな気がする夜のこと。
 土御門邸、末姫のいる対、その広廂。
 月が東の空に現れる時分だというのに、小さな人影がぽつり。
 まるで忘れ去られた南の一つ星のように、夜空を見上げていた。
 天から落ちたその星は、天上にいる仲間を羨ましそうに、元の場所に帰りたいと思うように、空を仰いでいた。



「ようやく、夜が長くなってきたね。
 一人で、星見かい?」
 ふらりと夜闇から現れた背の高い公達は尋ねた。
 突然の訪問に、藤姫は驚いた。
「いらっしゃるとは思ってもみませんでしたわ」
 今日は七夕。
 近衛少将は清涼殿で、帝の警護をしていなければならないはずだった。
「おやおや、つれないね。
 今宵は、一年に一度の逢瀬が叶う日だ。
 日毎に通う私が来るのは当然だろう」
 橘友雅は魅力的な笑みを見せる。

「お勤めはどうなさいましたの?」
 少女は、ぴしゃりと問いを投げつける。
「すぐに戻るよ。
 君の顔を見たくなってね」
「私が寝ていたら、どうするおつもりだったんですか?」
「起きていたじゃないか」
 友雅は階に腰を下ろす。
 長居をするつもりらしい。
「結果はそうですけれど……」
 少女は困ったようにつぶやく。
「それこそ、星の導きというものだよ」
「友雅殿がおっしゃると、何もかもが戯れごとに聞こえますわ」
 藤姫は年上の男性をねめつける。

「これでも誠意あふれる態度のつもりなんだが、日ごろの行いのせいかな?」
 友雅は扇を取り出すと、片手で器用に開いていく。
 幽かに秋風が香る。
「わかっていらっしゃるなら」
「わかっていても変えられないのが、大人なのだよ。
 実に窮屈極まりない」
「好き好んでやっていらっしゃるようにしか見えません」
「手厳しい意見だね」
 友雅は楽しそうに微笑む。
「それで何のご用ですか?」
「君に逢いに」
 とっておきの美声が甘くささやく。
 誑惑的な視線が少女を絡めとろうとする。
 が、藤姫は大きなためいきをついた。
 星の明かりの下、眷属の少女は守られている。

「明日ではいけませんでしたの?」
「深草少将は、欠かさずに通ったそうだ」
 友雅は古いたとえを引く。
「そんな約束をした覚えはありません」
「こちらが勝手に誓いを立てるのはかまわないだろう」
「ええ、職務をまっとうなさっていれば」
「普通の女人であれば、喜ぶ展開だと思うのだけれど」
「あいにく、私は友雅殿の傍にいるような女性とはかけ離れていますから。
 まだまだ、子どもですもの」
 藤姫はすまして答える。
「そんなところが、また魅力的だよ。
 星の姫君」
「ご冗談を」
「私は本気だよ。
 さて、そろそろ帰るとしよう。
 姫君の機嫌を損ねないうちに」
 友雅は立ち上がる。
 思わず引きとめようとして、少女の袖が伸びる。
 その直前。

 パチン

 扇が音をたてて、閉じられた。
 それが区切りだった。
「おやすみ」
 優しげに友雅は言う。
「本当は、何のご用でしたの?」
 少女は再度、問いかけた。
 帰ろうとしていた人は、足を止めて、振り返る。
「夜は毎夜来ても、七夕は、一年に一度しかないからね。
 特別な日を独り占めしたくなったのだよ」
 当然のことだね、と友雅は笑う。
「友雅殿!」
 真夜中だというのに、はぐらかされた少女は、声を荒げた。

「何やら気落ちのご様子の、姫君を慰めに。
 昼間届いた文は、思わず胸を打たれるようなできだった」
 戯れの恋のささやきよりも真剣に。
 重く、それは紡がれた。
「夢路の中で再会しましょう。
 愛しの姫君」
 友雅は微笑むと、夜闇の中に紛れていく。
 しばらくの間、途方に暮れたように、その場で少女はたたずんでいた。



 秋風に 霧払いて 天漢 舟こぎ渡る 月人をとこ


 秋の風がすっかり(雲を)払ってしまって良い夜です。
 (今ごろ)天の川を彦星は(織姫に逢うために)舟で渡っているのでしょう。
 とても、良い夜になりましたね。


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