「失って初めてわかるというものもあるのだね。
この歳になっても、そう思うよ」
広庇の柱にもたれかかりながら、上背のある公達は呟いた。
誰に聞かせるわけでもないといった口ぶりで。
その魅惑的な双眸は、空を見上げている。
シャラシャラと絹が鳴る。
貴人にしか許されないその音に、甲高い金属が打ち合う音が重なる。
それは天人の光臨のような、極上の音色。
この音をまとう地上人は、ただ一人。
間違ってこの地に落ちてきた天女のような姫。
男は首をめぐらせた。
この屋敷の末の姫君が……いた。
「いったい何のお話ですの?」
愛らしい少女は、その姿に似合わない大人びた口調で問う。
それが公達――橘友雅には、少しばかりこの外の光景のように思える。
「感傷という名の感情だよ」
友雅は片手で扇を開く。
香木の骨を持つ蝙蝠(紙扇)は、それだけで典雅な香りがした。
一扇ぎで良香に風も染まる。
「答えになっていませんわ」
藤姫は言う。
「あなたの問い全てに、答えねばいけないわけでもありますまい?」
公達の唇に苦笑にも似た笑みが刻まれる。
真十鏡にも劣らぬ、澄み切った深遠な二つの目が友雅を見る。
真実も、偽りも、等しくあばく瞳だ。
美しいと思うと同時に、なんと厄介なものだろうか、と思う。
人が持つにしては稀有な瞳は、星を読む姫君に良くお似合いだった。
だからこそ、友雅には辛く、重苦しい……。
友雅はパチンと音をたて、扇をとじた。
「友雅殿?」
いぶかしげに藤姫が友雅を見る。
真っ直ぐとした瞳には『心配』と『同情』が映っていた。
「お優しい、星の姫君」
大人である友雅は、未だ子どもである藤姫には言ってはならない言葉がある。
それが良識であり、けじめであった。
「そんなに心配されると、なかなか言い出せなくなるものだよ」
友雅は微笑む。
「?」
「五月雨のように、あなたの心も乱れてくれれば良いのだけれどね」
そう言うと、友雅は立ち上がった。
チリン、と胸騒ぐような黄金作りの冠の金属片が鳴る。
「どちらへ?」
藤姫の問う。
「自分の屋敷に帰ろうと思ったのだけれど。
引き止めてくれるのかい? 星の姫君」
友雅は腰をかがめ少女の耳元でささやく。
白くすべらかな頬は、芍薬の花弁よりも赤くなった。
「そんなつもりでは、ありません!」
勝気な瞳は友雅をにらみつける。
「知っているよ」
自嘲気味に男は言った。
場が静かに凍る。
ただ一言で、聡い少女は気づいてしまう。
言葉に宿る感情を読み取り、相手が望む言葉を導き出す。
無意識のうちに、それらはなされる。
「……友雅殿?」
藤姫は言葉を紡ごうとする。
それはきっと……居心地の良い『同情』だろう。
「ではこれ以上、ご不興を買わないうちに帰るとしよう」
友雅は言葉をさえぎった。
少女が追ってこれないように、足早に立ち去る。
外は晴れ。
それは時には好ましく、疎ましい。
ほかの季節であれば、喜ばしかったはずだ。
だが今は五月。
雨が降らなければならない季節だった。
当たり前のことが、当たり前にない。
その不自然さに気味が悪いと思った。