京を救った龍神の神子は、天に帰っていった。とされている。
どの書物にも、そう書かれることになるだろう。
けれども、それは真実ではなかった。
龍神の神子は京に残ることを選んだのだ。
その理由を知る者は、まめまめしく仕えた星の一族のみ。
あかねが秘密にしたわけではなかったけれども、誰も詮索しなかった。
いつか理由が明かされることを、八葉たちは待っていた。
きっと神子殿なら話してくれるだろう、と思って。
あかねは龍神の神子だった時のように土御門邸の藤姫の対で過ごしていた。
こちらの文字を知りたいと手習いをしている最中に、藤姫から声をかけられた。
「鷹通殿が来られましたが、お通しいたしますか?」
藤姫は尋ねた。
「本当? お願いできる?」
あかねの顔がパッと明るいものに変わる。
鷹通にぐちゃぐちゃに乱れた文字を見られたくなくて、慌てて文箱にしまう。
ほどなくして御簾が掲げられ、冷たい風が室内に入りこむ。
あかねは首をすくめた。
「こんにちは、神子殿」
落ち着いた足取りで鷹通はやってきた。
几帳をどけて対面する。
通り過ぎた季節の香りが漂う。
侍従の香だ。
秋風の香りだと教えてくれたのも、目の前の青年だ。
「神子殿はやめてください」
と、あかねがいつものように言えば
「私にとって神子殿は神子殿です」
ときっぱりと返事が返ってくる。
「頑固ですね」
「こればかりは譲れませんから」
鷹通は微笑んだ。
いつまで『神子殿』なのだろうか、とあかねは思った。
ためいきを零しそうになって、不意に思い出す。
ちょうど良いタイミングだ。
「鷹通さん、欲しいものはありますか?」
もうすぐ誕生日を迎えるはずだった。
「充分、満ち足りていますよ」
鷹通は言った。
「何でもいいんですよ」
あかねは食い下がる。
「何でも、ですか?」
鷹通は視線を落とした。
「私の叶えられる範囲、でですが」
あかねは言った。
「……難しいですね」
鷹通は首筋にある宝玉にふれる。
「欲しいものはないんですか?」
「自分で手に入れるものだと思っていますから。
それより突然、どうしたんですか?」
鷹通は顔を上げ、不思議そうに尋ねる。
「もうすぐ鷹通さんのお誕生日じゃないですか。
だから、ささやかながら贈り物をしたいと思ったんです」
あかねは白状した。
本当はサプライズしたかったけれども、思いつかなかったのだ。
「なるほど。
神子殿もが生まれ育った世界での習慣ですね」
鷹通は感慨深そうに頷いた。
「欲しいものはありますか?」
「その気持ちだけで充分です。
神子殿の優しい心にふれたような気がして、気分が高揚しているようです。
舞い上がる、とはこのことですね」
太陽のように明るい笑顔で、鷹通は言った。
「それで」
あかねは再度、尋ねる。
「秘密です」
鷹通は笑顔のまま言った。
「えー!」
あかねは不満の声を上げた。
「いつか神子殿が叶えてくださる、と信じています」
鷹通は、真っ直ぐにあかねを見た。
「お誕生日には、間に合いませんか?」
「どうでしょう?
でも、私はゆっくりと待ちたい気分なのです」
穏やかに鷹通は言った。
「私が叶えることってわずかですよ」
あかねは上目遣いで鷹通を見た。
「神子殿しか叶えられません」
鷹通は断言した。
「そこまで言うならヒントください」
「ひんと?」
鷹通は鸚鵡返しに尋ねる。
京には馴染みのない言葉だったのだろう。
その度に、住んでいた世界が違ったのだと、あかねは思い知り悲しくなる。
できるだけその溝を埋めていきたいと考える。
「えーっと、きっかけとか、謎の一部とか?」
あかねはたどたどしく言った。
外来語を説明するのは難しい。
「あなたが探し当てる日が来ることすら楽しみなのです。
だから、内緒です」
鷹通は幸せそうに言った。
「そうだ、用件を忘れるところでした。
唐菓子が手に入ったので、藤姫と一緒に食べてください」
鷹通は貝合わせでも入っているかのような大きな箱を差し出した。
「ありがとうございます。
なんだか、こっちに来てから貰ってばかりですね」
あかねは苦笑する。
「それだけあなたが魅力的だということです」
「そんなに褒めても何も差し上げられませんよ」
あかねは困ったように言った。
「あなたの笑顔が褒美です」
鷹通は甘やかすように言った。
その言葉に、あかねは赤面してうつむいた。
「それでは失礼いたします」
鷹通は立ち上がった。
「もう帰っちゃうんですか?」
あかねは顔を上げた。
「そんな顔をしないでください。
連れ去りたくなってしまいます」
鷹通は寂しそうな表情を浮かべた。
連れ去ってくださってもかまいません、と言葉が出そうになった。
迷惑をかけてしまうだろう。
だから、褒美だと言われた笑顔を浮かべる。
「誕生日楽しみにしてくださいね」
「もちろんです」
そう言うと、鷹通は御簾をくぐって行った。
揺れる御簾をながめながら、鷹通が欲しいものは何だったのだろうか、と考える。
「……ちっとも分からない」
誕生日には間に合いそうになかった。
お世話になっているからじゃない。
元の世界に変えるよりも、ずっと傍にいたかったから残った。
すべてを投げ打ってもいいほど、好きになった人だった。
だから、お祝いをしたかったのだ。
自分勝手だと気がついている。
鷹通にとって、いつまで『神子殿』なのだろうか。
考えがどんどん暗いものになってしまう。
自然にためいきが零れた。
あかねは、せめても文を送りたいと思って始めた手習いを再開した。
歌でも詠めば気がついてもらえるだろうか。
胸を締めつけられるほどの恋心を。