「もうすぐだね」
侍従の香と共に、声が忍び込んできた。
スッと御簾が上がり、冷たい空気が滑り込んでくる。
「友雅殿」
「やあ。元気そうだね」
艶めいた微笑みを浮かべ、上背のある公達は言った。
「昨日もお会いしたと、記憶していますが」
鷹通は筆を硯に戻した。
「そうだったかな。
いやはや、年を取りたくないものだね」
「何の用でしょうか?」
「いや、もうすぐだと思ってね」
友雅は手にしていた扇をパタパタと開いた。
「?」
「おや、覚えていないのかい?」
その言葉に青年は、考え込む。
煩雑な宮中行事の数々を思い出す。
「ああ、冬至でしたね」
と、至極真剣に鷹通は言った。
「本気かい?」
「本気ですよ」
青年は困惑する。
「時に、照り映える姫君とは、どうかね?」
友雅は尋ねる。
藤姫の姉姫の名前に、鷹通はさらに困る。
病弱なため、今まで鄙の地で療養していたという。
幾分か丈夫になり、先の吉日に裳着をすませたばかり。
匂うような美しさと、光のような明るい声の持ち主で、深い教養を持つ。
左大臣の珠玉と呼ばれる、姫だった。
というのは表向きのこと。
この地に留まることを強く望まれた天つ乙女の仮の姿であった。
「特に変わったことはありませんよ」
鷹通は、稀有な少女を思い出す。
そう、思い出さなければならないほど、逢っていない。
よっぽど目の前の公達とのほうが一緒にいる、というものだった。
「隠さなくても、私は噂を流したりはしないよ」
意味深に友雅は微笑んだ。
「本当に、何もありません。
最後にあったのは、神無月……もう一月半ほど、お声を聞いていませんね」
「もしかして、姫君に呼ばれないと、会いにいかないのかい?」
「友雅殿とは違いますから」
やんわりと鷹通は返す。
「なるほどね。
そういうことにしておこう。
では、楽しみだね」
「何がですか?」
「もうすぐだよ。
姫君がお呼びになるだろう。
では、失礼するよ」
唐突に友雅は御簾をおろす。
揺れ動く御簾を見つめ
「一体、何の用が……」
ポツリと呟いた。
◇◆◇◆◇
限月。冬至の直前。
短くなる昼に追われるように、鷹通は土御門邸にやってきた。
雪に降られなくて良かったと空を見上げて、思う。
空は不自然なほど、明るく白かった。
「鷹通さん!」
明るい声に名を呼ばれ、青年は急ぎ足になる。
「神子殿。
こんな端近で、凍えますよ」
「もう、神子じゃありませんよ。
あかねと呼んでください」
孫廂に立つ少女は、微笑みながら注意する。
今日は珍しく、小袿姿であった。
白に白を重ねる雪重ね。
地紋も鮮やかな、この季節らしい装いだった。
平素の童のような姿も見慣れたけれど、やはり女人らしい装いはハッとするほど美しい。
「いえ、神子殿は私にとって、いつまでも神子殿ですから」
青年は階を上る。
「鷹通さんは、真面目ですね」
「窮屈ですか?」
「いいえ」
クスクスとあかねは笑った。
不思議な女人だ、と鷹通は思う。
幼子のように警戒心がなくて、紫陽花の花のように色変わりする。
ころころと変わる少女につられて、新しい世界の扉を次々に開けているようだった。
予測がつかない、そんなところが魅力的だった。
己の色に染めてみたい気がする。
けれども、決して自分自身の色を見失ったりしない。
「今日はお招きいただきありがとうございます」
鷹通は会釈をする。
「本当は、鷹通さんのおうちに行きたかったんですけど。
藤姫がダメって言うから、ごめんなさい」
「いえ、お気になさらず。
私がこちらに伺うほうが自然です」
「今日は、これを渡したくって」
あかねは、袖の中から色鮮やかな錦袋を取り出した。
ああ、それでこの姿か。と鷹通は納得した。
袖の広い小袿であれば、袖の中に物を隠しておける。
「お誕生日おめでとうございます」
聞き慣れた言葉だった。
少女は、この世界へ来て、何度も口にした。
自分の番がようやく来たのだ。
言葉が、ストンと胸のうちに落ちる。
それは細かな波紋を広げ、ゆるゆると浮かび上がってくる。
「ありがとうございます。
素敵な習慣ですね」
改めて、そう思った。
誰もがこの日『ありがとう』と言う意味を知る。
気にかけてもらっている。
日々の中、この日は特別だと。
他の誰でもない、大切な人に祝ってもらえる。
「私、鷹通さんの誕生日を祝えて嬉しいんです。
鷹通さん。
生まれてきて、私と出会ってくれて、ありがとうございます。
これからも、よろしくお願いしますね」
あかねは小さな錦袋を手渡す。
「こちらこそ。
神子殿に出会えて、光栄です」
鷹通は微笑んだ。
こんな言葉では足りない。
強い喜びは、言葉にならない。
どうしようもないくらい幸せだった。
今日という日を忘れることはできない。
鷹通は、そう思った。