それはセイリオスにとってかけがえのないほど幸せな日常だった。
あといくつ乙女と紅茶を飲む機会があるのだろうか。
あといくつ乙女の笑顔を独占することができるのだろう。
あといくつ乙女のために曲を作り、乙女が歌ってくれるだろう。
動き出した運命の中、セイリオスはそっとためいきをついた。
「どうかなされましたか?」
ディアーナが尋ねる。
穢れなき紫の瞳は、紛い物の自分とは違う。
作られた兄妹関係だった。
誰が始めた嘘なのだろうか。
セイリオスに重苦しくのしかかる。
それでも優しく、時には小言の多い兄を演じなければならない。
「難しい顔をしていましたわ」
鋭い指摘をされてしまった。
どうやって切り抜ければいいのだろうか。
セイリオスは二度目のためいきを飲みこんだ。
「いつまでもお転婆な妹だ、と思ったのだよ」
誤魔化すようにセイリオスは言った。
少女から乙女になっても変わらない。
それが一種の救いのような気がして、罪悪感が薄れる。
今まで一緒に過ごしてきた時間よりも、遠く離れている時間が長くなるのだろう。
自分はそれを止めることもできずに、兄の笑顔で見送ることしかできない。
それがセイリオスが選択した道だった。
後悔していない、と言えば噓になる。
そんな日が来ることを想像するだけで、胸が苦しくなる。
自分で選んだ道だというのに。
「失礼ですわ」
ディアーナは眉を顰める。
形の良い指がティーカップを持ち上げる。
淡く色づいた唇がティーカップに当たるのを見て、ティーカップが羨ましくなった。
柔らかな唇にふれてみたい、とセイリオスは思ってしまった。
紅茶に足された蜂蜜よりも甘い誘惑だった。
恋人同士のように口づけをしたい、と思うのは、これまでの選択肢を無駄にするようなものだった。
ディアーナは大切な妹なのだから。
そんなことを考えてはいけない。
兄失格だ。
いつまで妹に甘い兄の振りができるのだろう。
セイリオスは心の中で微苦笑を浮かべる。
この幸せな日常生活が続くことをエーベの神に祈る。
ディアーナには何も知らずに、無邪気なままでいてほしい。
兄も仮面を被った男の欲望なんて気づかずにいてほしい。
この国王女として、幸せな恋に巡り会って、結実してほしい。
不幸にはなって欲しくなかった。
セイリオスは少しぬるくなってしまった紅茶をすする。
ほんのりと苦い味がした。
まるで自分を映しているようだった。
ほろ苦いぐらいがちょうど良い恋なのかもしれない。
「お兄様は幸せですか?」
ディアーナが不安げに問う。
アメジストよりも美しい瞳が揺れていた。
「もちろん幸せだよ」
セイリオスは嘘を重ねた。
この日常生活は終わりが見えている。
沈んでいく夕陽を思い浮かべながらサヨナラの準備をしなくては、と思った。
それは不幸せではない、と信じながら。
恋に落ちた、たった一人の乙女のためだ。
最後まで兄らしく振舞えるのは悪いことじゃなかった。
「充分に幸せだよ」
セイリオスはディアーナを安心させるように微笑んだ。
「それなら素敵ですわ。
わたくしもお兄様と一緒にいられて幸せですもの。
二人分の幸せですわ」
ディアーナはニコリッと笑った。
それを見たセイリオスの胸はチクリと痛んだ。
嘘の上に成り立つ、幸せは儚いものだ。
セイリオスは言葉を重ねずに、笑みを深くした。
ささやかな幸せのために。
哀れな恋に落ちた自分自身のために。
終焉を迎えるはずの幸せな日常生活のために。
いつまでも続かない、と知っている刹那の時間のために。
セイリオスは渋くなった紅茶を飲み干した。