最初に嘘をついたのは誰だったのだろう。
初めは小さな嘘だった。
一つついた嘘は、やがて大きな嘘になった。
重ねすぎて、真実は闇に落ちた。
昨日の続きの今日が来た。
朝の日差しが起床をうながす。
セイリオスはベッドから滑り降り、鏡を見る。
瞳の色は紫。
それに安心して、微苦笑を浮かべる。
こうして確認するのが日課になってしまった。
紫の色の瞳を見る度に、王族のとしての責務を思い出す。
病がちな父王を補佐して、人民を導いていく。
皇太子としての期待に応えることは、いつまで経っても慣れない。
時に、不安になる。
自分でいいのか。
もっと相応しい人物がいるのではないのか。
そんなことを思ってしまう。
王家の男子はセイリオスひとりきりだ。
積み重ねた嘘の上に成り立っている。
紫の瞳がセイリオスを縛る。
逃げ場所はないと教える。
純白の衣に袖を通す。
与えられた役目を果たすために、執務室に向かう。
決済する書類の山が待っているだろう。
セイリオスが抱えている悩みなど、ちっぽけだと証明してくれるだろう。
いつも通りにドアノブを回す。
青年は紫の瞳を見開いた。
薔薇の香りが鼻をくすぐる。
「おはようですわ」
花弁の色で染めたような髪色の少女が立っていた。
「ディアーナ」
セイリオスは突拍子もない妹姫の名前を呟いた。
シオンやアイシュがいたなら、ビックリしなかっただろう。
朝の白い光の中に、少女がいたことに驚いた。
「今日は頑張って早起きをしました。
どうしても、一番に逢いたかったんですわ」
青年と同じ色の瞳は楽しそうに言う。
「お誕生日、おめでとうですわ」
七年ぶりに逢った妹は、まったく変わらない。
無邪気な笑顔を浮かべて嬉しくなることを言う。
あと半年もすれば、成人だ。
王家の慣習通り他の男へと嫁ぐことになるだろう。
少女を独占できるのもわずかな時間だ。
だから、少女の中で一番がまだ自分であるということが胸を熱くする。
喜びが夏の暑さを払いのける。
「お兄様が誕生日に下さったペンで書いてみましたの」
ディアーナは淡いブルーの封筒を差し出した。
「こうして直接、お会いできるのが嬉しいですわ。
手紙はお暇な時に読んでくださいませ」
「ありがとう、ディアーナ。
誕生日だということを忘れていたよ」
セイリオスは封筒を受け取った。
美しい飾り文字で、セイリオスの名前が書いてあった。
「まあ。お兄様でもそんなことがあるのですのね。
今日はたくさんの人にお祝いの言葉をもらえると思いますわ。
だから、どうしても一番になりたかったのです」
少女は言った。
「たとえ一番じゃなくても、ディアーナから貰えるなら、それが特別だよ」
セイリオスは微笑んだ。
「嘘でも嬉しいですわ」
「私はお前には嘘はつかないよ」
大きな嘘を抱えている青年は断言した。
最後まで少女の誇りになるような兄であることを意識している。
少なくとも目の前の少女と別れる日が来るまでは。
「本当ですの?」
王族らしい紫の瞳が問う。
「本当だよ」
セイリオスは小さな嘘を重ねた。
「薔薇を活けてくれたのもディアーナかい?」
青年は微妙に話をずらす。
執務机の花瓶の中には、少女の髪色の花が活けられていた。
「中庭で摘んできましたの」
ディアーナは胸を張る。
「棘は刺さらなかったかい?」
「心配は無用ですわ。
シオンに摘むコツを習いましたの」
「後で、シオンにも礼を言わなければならないね」
女性には甘い友人が教えている光景が目に浮かぶ。
きっと嬉々として実践して見せたのだろう。
「わたくしからお礼は言ったから、お兄様は言わなくても大丈夫ですわ。
それにバレてしまいますわ」
「何がだい?」
「お兄様のために薔薇を摘んだことはナイショですの。
庭師にも秘密で、摘んできたのですわ。
知られたら、怒られてしまいますわ」
ディアーナは目を半ば伏せ、ドレスの裾をいじる。
「では、ここだけの秘密にしよう」
セイリオスは言った。
真相が知られても、怒る人物は誰もいないだろう。
それでも無垢な少女が不安になるのなら、安心するように言葉をつむぐ。
「ナイショにしてくれますの?」
大きな瞳が見上げる。
「ああ、二人だけの内緒だ」
青年はうなずく。
少女の顔に笑顔が戻る。
「ありがとうですわ」
「感謝するのは、私の方だよ。
ありがとう、ディアーナ」
セイリオスは飾らない気持ちで言った。
「そろそろ部屋に戻りますわね。
朝食はご一緒できますの?」
「ああ、もちろんだ」
「じゃあ、それまでしばしのお別れですわね。
早朝から失礼いたしました」
ディアーナはドレスの裾を持つと、優雅に礼をした。
薔薇色の髪がさらさらと肩から零れて美しかった。
いつまでも小さな可愛い妹ではいてくれない。
それを浮き彫りにするようだった。
「ありがとう、ディアーナ」
セイリオスは噛み締めるように、もう一度言った。
同じ色の瞳がキラキラと仰いでくる。
「今日はお兄様の誕生日ですわ。
わたくしにできることは、ちょっとだけですわ。
喜んでもらえて嬉しいですわ」
淑女への階段を登り始めた少女は言った。
やがて離れていく日が来るのだと、実感してセイリオスの胸が痛む。
ディアーナは笑顔のまま、ドアの向こうへと消えた。
小さくなっていく背を最後まで見送る。
独りきりになったセイリオスは、ためいきをついた。
最初に嘘をついたのは誰なのだろう。
セイリオスは、その嘘に囚われている。
一生突き通さなければならない嘘だ。
その嘘に押しつぶされそうになる。
本来、祝われるはずの皇太子の誕生日は誰のものだろう。
紛い物の自分が受け取っている。
セイリオスは封筒に目をやる。
良い兄であることに、少し疲れた。
これからも嘘をつき続ければならない。
それが国のためだ。
わかっている。
わかりたくない。
嘘がなければ少女と出会うことはなかっただろう。
嘘がなければ少女と恋に落ちることができただろう。
二律背反だった。
ゆるりと昇る太陽に嘘を溶かしてしまいたいと思った。