7月25日。
これから、ますます暑くなる夏の日。
新調したばかりの帽子を得意げに被り、この国の第二王女はノックする。
兄王子が仕事をしている、その執務室の扉を。
「お願いがありますの」
薔薇色の髪の少女は言った。
執務机の向こう側の紫の瞳がディアーナを見つめる。
まるで鏡で写したように、同じ色の瞳だ。
それが今、お小言を言う準備をしていた。
少女は「困りましたわ」と小さく呟く。
セイリオスは手を休め、
「おはよう、ディアーナ」
と言った。
そういえば、朝のあいさつをしていなかった。
「おはようですわ」
ディアーナは、にっこりと言う。
王女として叩き込まれた行儀作法が、少女にこれ以上ない美しい微笑をさせる。
「それで、何の用かな?」
「街に出かけたいんですの」
ディアーナは用件を切り出した。
「もし、ダメだと言ったら、どうするつもりだい?」
セイリオスは執務机に、頬杖をつく。
それは話を身を入れて聞く合図だ。
少女は瞳を輝かせる。
「そうしたら、ナイショで出かけるだけですわ」
できたら、今日だけは、きちんと許しをもらって行きたいけれど。
ダメだと言われたら、いつものようにお忍びで出かけるだけのこと。
「なるほど。
それは、避けたいところだ。
ところで、街へは一人で行くのかい?」
「違いますわ。
メイとシルフィスと一緒ですわ」
「シルフィスと一緒か。
許可をしよう。
反対して、無断で抜け出されるよりはいいからね」
セイリオスは言った。
「どうしてシルフィスと一緒だとよろしいんですの?」
ディアーナは小首をかしげる。
もっと渋られるかと思っていた。
完璧な淑女にするつもりなのか、兄はとても口うるさい。
お忍びで出かけたところを、一度見つかったときなど。
思い出すのも悲しくなる。
王女としての自覚に始まり、普段の生活態度に及び、話はさらに続き……。
たくさん注意を受けるはめになったのだ。
ディアーナは眉をひそめた。
「レオニスから、腕の立つ見習いだと聞いている。
もしものことがあれば……、できることならないほうがいいが、剣が助けになることもあるだろう」
「では、これから外出するときは、シルフィスを誘いますわ。
お兄様は心配性ですのね」
それで許しが得られるのなら、お忍びで出かけるより良い。
シルフィスも、メイも、楽しいお友だちなのだ。
一人で出かけるより楽しくって、叱られずにすむなら、そちらのほうが良い。
「妹を持つ兄というのは、どこもこんなものだよ。
心配ばかりで良いことはない」
セイリオスは肩をすくめる。
同じ色の瞳が、ひどく寂しそうに見えた。
まるで赤の他人のように、距離を感じた。
「本当ですの?」
ディアーナは目を瞬かせた。
「何がだい?」
「良いことはないって」
ディアーナはドレスを握り締める。
大好きなお兄様に、そんなに迷惑をかけているんだろうか。
違うと言い切れないのが、心苦しかった。
「ディアーナ」
優しく、あたたかい呼びかけ。
兄から名を呼ばれるのが好きだった。
「言葉のあやだよ。
心配と同じぐらいに、喜びをもらっている。
私は、今でもお前が生まれた日を覚えている。
とても、とても、嬉しかった」
だからそんな顔をしないでくれ。とセイリオスは言う。
「はいですわ」
言葉に嘘を感じなかったから、ディアーナは微笑めた。
笑顔のまま、街に下りたのだった。
◇◆◇◆◇
「ところで、ディアーナ。
何を買いにきたの?
買い物なんて、珍しいよね!」
焦げ茶色の髪の少女が尋ねる。
「お兄様の誕生日プレゼントですわ」
ディアーナは棚からそれを一つ取る。
思ったよりも、種類が豊富で目移りしてしまう。
材質によって効果が違うらしい。
紫の瞳は真剣に、値札の裏に書いてある注意書きを読む。
さわり心地はどれも良い。
どれがいいのだろう。
ディアーナは、順番に感触を確かめていく。
「もうすぐ殿下の誕生日なの?
へぇー、じゃあ何か贈ろうかなぁ。
お返しありそうでしょ」
八重歯を覗かせて、メイは笑った。
「まあ」
現金な反応に、この国の王女は驚く。
見返りを求めてプレゼントを贈る、なんて考えたこともなかった。
国が違えば、習慣が違うとは聞くけれど、やはり異界からの訪問者の言葉は新鮮だった。
「それが……プレゼントですか?」
シルフィスの緑の瞳が、ディアーナとその手の中にある物を見比べる。
「はいですわ」
ディアーナはにっこりと笑った。
6月に迎えた誕生日から考えていたことだった。
インク切れのしない魔法ペン、という素晴らしい物をくれた兄に対して、いつもとは違う贈り物をしよう。と。
一ヶ月以上考えた結果だった。
「殿下、きっと驚くね」
メイは楽しげに笑う。
「これで平然としていたら、どうしましょう」
少しだけ不安になり、ディアーナは呟く。
「多分、驚かれると思いますよ。
想像がつかないプレゼントだと思いますから」
シルフィスは言う。
「頑張りますですわ」
ディアーナは真剣な表情で、うなずいた。
◇◆◇◆◇
その日の夕方。
お目当ての物を綺麗にラッピングしてもらい、ディアーナは笑顔のまま帰宅した。
一番に執務室へと飛び込む。
きっと明日には、この部屋いっぱいに贈り物が届く。
クライン王国ご自慢の摂政殿下の生誕日なのだから。
「お兄様。
ただいまですわ」
後ろ手で、プレゼントを隠しながら、執務机に近づく。
けっこう大きなものだから、たぶん背からはみ出している。
それでも、ちょっとでも驚きを大きくしたくて、隠す。
「お帰り、ディアーナ」
昼間と同じように、仕事に囲まれた兄は、手を休める。
ディアーナのために時間を割いてくれる。
特別扱い。
それがくすぐったかった。
「お誕生日、おめでとうですわ!」
背に隠していた物をディアーナは差し出す。
雪のように真っ白な包み紙に、薔薇色のリボン。
セイリオスがいつもまとう色に、お祝いの気持ちをこめてリボンをかけた。
誕生日は、本当は明日。
皇太子殿下の誕生日は、記念式典が目白押しで、来賓も多く来る。
朝から大忙しで、夜にはパーティだ。
こんな風に、二人っきりで話す暇などない。
「ありがとう。
開けてもいいかな?」
「もちろんですわ。
お兄様はわたくしの誕生日に、わたくしのために必要なものをくださいました。
ですから、わたくしもお兄様に必要なものを差し上げようと思いましたの」
ディアーナは微笑んだ。
包み紙の解かれた物を見て、セイリオスは目を丸くした。
大きな執務机のど真ん中を占める、それ。
聡明と近隣諸国に鳴り響く王子にも、予想外だったらしい。
「お兄様には、お休みが必要ですわ。
働きすぎですもの」
ディアーナは自信たっぷりに言う。
兄を驚かせることに成功して、嬉しかった。
「とても寝心地が良さそうだ。
ありがとう、ディアーナ」
セイリオスはプレゼントされた枕にふれる。
感触を確かめるように、トントンと軽く叩く。
その表情は、とても柔らかい。
普段の張り詰めた空気は、どこにもない。
ディアーナの胸も幸せで満ちていくようだった。
「当然ですわ。
きちんと、自分の目で確かめて、買ってきたんですもの。
とっても良い夢が見られますわ」
ディアーナは請け負う。
「じゃあ、今度、一緒に昼寝でもするかい?」
「まあ。お兄様ったら。
わたくしは、それほど子どもじゃありませんわ。
お昼寝はお一人でなさってくださいませ」
「そうするよ」
セイリオスは小さく笑った。