生きていく世界

 『じゃあね』と言って別れるはずだった。
 元の世界に戻れるのは嬉しいことのはずだった。
 それなのに芽衣の栗色の瞳からは、涙が溢れて止まらない。
 芽衣が異世界に召喚した元凶は、困ったような表情をした。
 伊達眼鏡越しのホーリーグリーンの瞳には途惑いが浮かんでいた。
「心残りはないだろう?」
 キールは言った。
「いっぱいあるよ」
 嗚咽混じりに芽衣は告げた。
 キールは芽衣の頭にポンと手を置く。
 毎朝、この世界に馴染むように魔法を施してきたように。
 それはぶっきらぼうな緋色の肩掛けの魔導士のあたたかさで。
 芽衣を涙は加速する。
「元の世界に戻れるんだ。
 そのために魔法の勉強を頑張ってきたんだろう?
 ハッピーエンドじゃないか」
 その声は励ますように、諭すように言う。
「だって、アタシがいなくなっちゃったらキールは、また独りぼっちになっちゃうよ」
 芽衣は鋭く言った。
「慣れている」
 キールは断言した。
 それが少女の胸を締めつける。
 院の中で一目置かれている、と言えば綺麗な表現だったが、キールの周りには人がいなさすぎる。
 孤独に親しんでいる姿は、切なすぎる。
「この世界で友だちもできたし、離れ離れになるなんて悲しすぎるよ」
 芽衣は涙ながらに訴える。
「元の世界にも友だちがいるだろう?
 それに家族だっている。
 この世界にはお前の家族はいないだろう?」
 キールの手が離れる。
 どうしても、この保護者は芽衣を元の世界に戻したいようだった。
 召喚の失敗を気にしていた。
 来たばかりの、右も左もわからない時期だったら嬉しかっただろう。
 けれども、この世界に馴染みすぎた。
 離れがたいと感じるほどに。
「確かに、この世界には家族はいないよ。
 でも……」
 栗色の瞳がホーリーグリーンの瞳をしっかりと見つめる。
 手の甲で涙を拭う。

「世界を救いたいと願うぐらいに、好きな人はいるよ」

 芽衣は想いをこめて言った。
 いくら色恋沙汰から鈍感な魔導士にも伝わったようだ。
 目を瞬かせ、ためいきを一つ。
「お前なぁ。
 そんな理由で生きていく世界を選ぶなよ。
 俺の気持ちはどうなるんだよ。
 お前を元の世界に戻してやりたいと思って、研究を続けていたんだぞ」
 キールは苦笑した。
「だって仕方じゃない。
 本当の気持ちなんだから」
 芽衣は笑った。
「……ようやく笑ったな。
 俺の研究を無駄にしてそんなに嬉しいか?」
「嬉しいよ」
「俺はお前の保護者だからな。
 どうやら、甘いらしい」
 キールは言った。
「もしかして両想い?」
「もしかしなくても、だ。
 降参だ。
 お前の勝ちだ。
 好きなだけ、この世界を楽しんでくれ」
「本当?」
 芽衣は尋ねる。
「嘘をついてどうする」
「やったー!」
 芽衣はぴょんと小さく飛び跳ねた。
 その様子にキールは大げさにためいきをついてみせた。
「せっかくの魔法の才能だ。
 それも世界を救ってしまうほどの。
 政略に扱われないように、気をつけないとな」
「え?」
 栗色の瞳を瞬かせる。
「しばらく院の中で大人しくしているんだな。
 好きな相手と結婚したいんだったらな」
 キールは意地悪そうに言った。
「それって、もしかしてプロポーズ?」
「好きなようにとれ。
 こう見えても俺は忙しい。
 周囲を納得させないといけないからな」
「もうちょっと甘い言葉でささやいてくれてもいいのに。
 色気がないよ。
 でも、まあ、それがキールらしいかな」
 芽衣はクスクスと笑った。
「返事は?」
 キールが問う。
「もちろん、イエスだよ。
 アタシは好きな人に巡り会うために、この世界に来たのかもね」
 少女は心からの笑顔で、未来の家族を見上げた。


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