キール=セリアンにとって、去年まで9月21日は何でもない日だった。
秋が深まり、落ち着く日だった。
それが今年は違った。
部屋にかけられたカレンダーには赤いインクで花丸が描かれていた。
そう、今日は被保護者の誕生日だ。
キールはためいきをついて、本を閉じた。
この本も外れだった。
誕生日までに、元の世界に返してやりたかったが無理だった。
誤って召喚された少女は、毎日、楽しげに笑っているが、それが空元気だと知っている。
家族と引き離されて、友達とも別れ離れになっている。
この世界でただ独りで暮らしている。
それは幸せに程遠い。
もちろん、普段はそんなそぶりは見せない。
けれどもキールは知っている。
かたくなに、元の世界の服を着ている。
この世界では奇抜な格好だが、着替えることはない。
か細い糸のような縁にすがりついている。
だからこそ、キールは芽衣を元の世界に戻してやりたいと思っていた。
どんな文献に当たっても、召喚したものを戻す方法は書いていない。
だからといって諦めることはできない。
キールは山積みになっている本から、一冊抜き出す。
ヒントになるようなことが書いてないか。
ページをめくる。
唐突にドアが開けられた。
キールは本にしおりを挟む。
緋色の肩掛けを許された魔法使いの部屋をノックもせずに開けるような人物は限られている。
予想通りの相手に、キールはためいきをついた。
「おはよー! また徹夜したの?」
クライン風に名乗るのならメイ=フジワラが部屋に飛びこんできた。
「きちんと寝ないと、疲れが取れないよ」
「休みはきちんと取っている」
キールは言った。
「さて問題です。
今日は何の日でしょう?」
芽衣は嬉しくってしょうがないといった表情で言った。
9月21日だ。
忘れることはできない日だ。
「さあな」
キールは、はぐらかした。
カレンダーに花丸を描いた人物は、本当に楽しそうに笑う。
それがキールには不可解だった。
異世界で迎える誕生日は心細くはないのだろうか。
「本当に覚えていないの?」
芽衣は机に手を置いた。
「狸の誕生日だ」
「なんだ。
ちゃんと覚えているじゃん。
忘れちゃったのかと思ったよ」
焦げ茶色の瞳が期待に満ちた目でキールを見つめる。
キールは引き出しから、小箱を取り出した。
「もしかしてプレゼントまであるの!?」
芽衣は目を丸くする。
「いらないのか?」
キールは立ち上がり、芽衣の頭をなでる。
暴走しがちな魔力を安定させるための毎朝の儀式だ。
それにプラスして小さな手に小箱を渡す。
「ありがとう」
芽衣はうつむく。
いつもは煩いぐらいの声が震えていた。
「これが目当てだったんじゃないのか?」
キールは不安になる。
保護者として、できることは少ない。
シオンのように女性を喜ばせるような言動はできない。
兄のように他人を和ませるようなこともできない。
ただカレンダーに描かれた花丸のために、ささやかなプレゼントを用意することしかできない。
「一番にお祝いの言葉を聴きたかっただけだったんだ」
芽衣は顔を上げた。
泣き出しそうな笑顔を浮かべていた。
「だって、キールはあたしの保護者なんでしょ?」
それを聞いて、キールは祝いの言葉を言ってないことに気づいた。
「誕生日おめでとう」
キールは改めて言った。
とっくに成人している少女の大きな瞳から涙が伝う。
「ごめん。
キールに祝ってもらえるなんて思ってなかったから、ビックリしちゃって」
芽衣は手の甲で涙をぬぐう。
「カレンダーに描かれていれば、忘れることはできないだろ」
とってつけたような言い訳だな。
そんなことを思いながら、感情が乗らないようにキールは言った。
去年まで9月21日は何でもない日だった。
「ありがとう、キール。
最高の誕生日だよ」
瞳に雫を残したまま芽衣は言った。
女性全般の涙は苦手だが、いつも明るい少女の涙は特に苦手だ。
なんて言葉をかければいいのか、分からなくなる。
「嬉しい」
心からの言葉に、キールの胸は痛む。
誕生日前に、元の世界に帰してやりたかった。
家族や友達に囲まれた誕生日を迎えさせてやりたかった。
夢のまた夢になってしまったことが口に苦味が広がる。
来年の9月21日は何でもない日に戻っていることを願う。
こんな気持ちを抱え続けているのは御免だった。
たった一人の少女のために、キールは文献を探し続けるだろう。
それが誤って召喚してしまった少女への誠意だった。