10月15日

 キール=セリアンの部屋の扉がノックもされずに開いた。
 半年前なら信じられなかった現実だ。
 部屋の主である緋色の肩掛けを持つ魔導士は、ためいきをついた。
 彼の被保護者が満面の笑みを浮かべて、そこにいたからだ。
 栗色の髪が楽しげに、細い肩の上で踊っている。
「やっほー、キール!」
 青い服の裾を揺らしながら、少女はキールの机までやってくる。
「課題は終わったのか?」
 青年は視線を本に戻す。
 この本もハズレだろうか。
 ついてもつききれないためいきをつく。
 入手に時間がかかった割りに、目新しい知識はないようだった。
 キールの目は惰性で文字を追う。
「もちろん!
 今日の分はちゃーんと終わらせました」
 完璧でしょ、と少女は言う。
「明日以降もそうであれば、な。
 続かなければ意味がない」
 キールの視線は、ページの左上から右下まで、素早く移動する。
 読み落としはない。
 青年はページをめくった。
「それで読んでるの?」
「内容は理解している。
 で?」
 キールは読書を中断する。
 芽衣の瞳がキラキラと輝く。
 かまってもらって喜んでいる動物のようだった。
 青年はためいきをついた。
 1ページでも多く読んでおきたいのだが、目の前の少女がそれを望んでいない。
 仕方なく、キールは読書を諦める。
「ねえ。
 アイシュの好きなものって知ってる?」
 芽衣が尋ねる。
「何で俺に聞くんだ?」
 キールは顔をしかめた。
「だって、兄弟じゃん。
 知らないの?」
 焦げ茶色の瞳がパチパチと瞬きする。
「本人に聞けば良いだろう?」
「ええ!
 キールは、アイシュの弟なのに、知らないの?」
 無知を咎めるように言う。
「関係ないだろ。
 第一、何だってそんなことを聞くんだ?」
 苛立ちながら、キールは言う。

「だって、もうすぐアイシュの誕生日じゃん」

 芽衣はしごく当然だという顔をして言った。
 それで、キールは自分の誕生日が『もうすぐ』だということを思い出す。
 アイシュとキールは同じ日に生まれた、双子の兄弟だ。
 性格、才能。
 ありとあらゆるものを比べ続けられ、優劣をつけられた……双子の兄弟だった。
 キールはいつだって『アイシュの弟』だ。
 成人し、別々の職に就いている今も、それは変わらない。
 その逆はなかった。
 アイシュが『キールの兄』であったことなど、なかった。
 常に、アイシュはアイシュだった。
 誰もがキールよりも兄と親しくなることを望んだ。
 親交を深めるために、踏み台にされることもあった。
 青年の口に、乾いた笑みがつく。
「だから、キールなら知ってると思ったんだけど。
 ホントに知らないの?
 アイシュの好きなもの」
 無邪気に芽衣は問う。
 だから、がどこからつながるのか。
 キールには皆目見当がつかなかった。
「他に、誰に聞こう。
 殿下とかシオンなら知ってるかなあ」
 芽衣は困ったと腕組みをする。
「甘いもの」
 キールは答えた。
「へ?」
「甘いものが好きだったはずだ」
 どうせ、答えにたどりつくだろう。
 だとしたら、ここで隠すのは得策ではない。
「ホント?
 ありがとう、キール!」
 少女はパッと顔を輝かせる。
 助かったぁ、と芽衣は指を祈るように組む。
「でさぁ。
 このことなんだけど……」
「兄貴に内緒にしておけばいいんだろ?」
「さっすがキール。
 話が早い、早い♪
 よろしくね」
 愛らしく芽衣は笑う。
 キールは大げさにためいきをついた。
 そんなことをしても、胸の内のモヤモヤは晴れたりはしなかった。

   ◇◆◇◆◇

 青い空が天井のように、頭上に大きく広がっていた。
 見事に晴れ上がった空を恨めしく思う。
 20回目の誕生日を散々な気分で、青年は迎えた。
 その右手には一通の封書。
 文字を習い始めた子どものような、たどたどしい筆跡で『招待状』と書かれている。
 キールは会場に指定された場所の前で立ち止まった。

「兄貴」

 予想外の人物だった。
 その左手には、一通の封書があった。
 封筒も筆跡もそっくりだった。
 おそらく中身も同じだろう。
「ああ、キール〜。
 こんなところで会うなんて、奇遇ですね〜」
「何だって、こんなところにいるんだ?」
 キールは驚いた。
 ここはセリアン宅の前だった。
 二人の『家』の前で出会うのは、不自然だった。
 王都に越してきてからは、キールが『家』に帰ってきて、アイシュは『家』で出迎える。
 それが固定されていた。
 家の前で会うのは、これが初めてだった。
「昨日は仕事があって、王宮に泊まったんです〜。
 そこでこれが届けられて、帰ってきたんです」
 アイシュは穏やかな物腰で話す。
 優秀な文官である兄が泊まるほどの仕事。
 胡散臭かったが、キールは追求しなかった。
「ああ、そうでした〜」
 アイシュは微笑んだ。
 嬉しそうな顔をして、双子の兄は言う。

「誕生日おめでとう、キール」

 手の中で音がした。
 紙が曲がる音。封書が折れ曲がる音。
 自分の器の小ささを自覚させる音。
 キールは大きく息を吸い込む。
 敵わない、と思う。
 誰もが兄を選ぶのは、仕方がない。
 愉快ではない状況だが、それほど不快ではない。
「兄貴もだろ。
 双子なんだから」
 キールは視線をそらした。
「ああ、そうですね〜」
 アイシュはのんびりと相槌を打つ。

「二人とも遅っーい!
 せっかく芽衣様が用意して待っていてあげたって言うのに」

 真っ白なエプロンをつけた少女が門から飛び出してくる。
「もう。男二人で盛り上がらないでよね。
 さあ、入った入った!」
 芽衣の勢いに押されて、アイシュとキールは、自分たちの家に入る。
 一歩踏み込んだ瞬間から、甘い匂い。
 キールは思わず、眉をひそめた。
 ある程度、予感はしていたが、実際にかぐとなると、話は別だ。
 いつもなら、文句の一つでも口にするところだったが、せっかくの誕生日だ。
 台無しにするわけにはいかない。
 匂いの元凶に近づいていく。
 誕生祝いとして完璧に整えられた食卓があった。
 花瓶には花が生けられ、テーブルの上にはドンとケーキが鎮座している。
 氷の入った器に入ったカラフェ、整然と並ぶ銀のナイフとフォーク。
「すごいですね〜。
 芽衣、一人で用意したのですか〜?」
「ちょっと手伝ってもらっちゃったけど。
 あ、でも、ケーキは一人で焼いたんだよ。
 アイシュが甘いものが好きって、キールから聞いて。
 それで」
「そうなんですか〜。
 ありがとうございます。
 こんなに嬉しい誕生日は、初めてですよ〜」
 アイシュは大げさなことを言う。
 キールはためいきをついた。
「はい、キール」
 芽衣はテーブルの上に載っていた包みをキールに差し出す。
 ピンクのリボンをかけた包みは、平べったい。
「これはキールの分」
「は?」
「アイシュがキールは本が好きだって言ったから。
 いつも本に囲まれているから、さらに本を渡すのは……とは思ったんだけど。
 でも、好きなものを貰うのって嬉しいでしょ。
 キールが普段読まないような本にしてみました」
 芽衣はニヤッと笑い、包みを押しつける。

「二人とも、誕生日、おめでとう!」

 裏も表もない言葉だった。
 芽衣は初めから、二人の誕生日を祝うつもりだったのだ。
 勝手に想像して、勝手に不機嫌になっていた。
 空回りもいいところだ。
 勘違いだったのだ。
 キールは芽衣から目をそらした。
 すると、同じ色の双眸と視線が合う。
 分厚い眼鏡の奥の瞳は穏やかだ。
 何でもわかった顔をして、双子の兄がうなずく。
 キールは呆れたように、困ったように、微笑んだ。


 20回目の誕生日は、記念すべき日となった。
 何度でも思い出す、幸福な記憶の日となった。


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