キール=セリアンの部屋の扉がノックもされずに開いた。
半年前なら信じられなかった現実だ。
部屋の主である緋色の肩掛けを持つ魔導士は、ためいきをついた。
彼の被保護者が満面の笑みを浮かべて、そこにいたからだ。
栗色の髪が楽しげに、細い肩の上で踊っている。
「やっほー、キール!」
青い服の裾を揺らしながら、少女はキールの机までやってくる。
「課題は終わったのか?」
青年は視線を本に戻す。
この本もハズレだろうか。
ついてもつききれないためいきをつく。
入手に時間がかかった割りに、目新しい知識はないようだった。
キールの目は惰性で文字を追う。
「もちろん!
今日の分はちゃーんと終わらせました」
完璧でしょ、と少女は言う。
「明日以降もそうであれば、な。
続かなければ意味がない」
キールの視線は、ページの左上から右下まで、素早く移動する。
読み落としはない。
青年はページをめくった。
「それで読んでるの?」
「内容は理解している。
で?」
キールは読書を中断する。
芽衣の瞳がキラキラと輝く。
かまってもらって喜んでいる動物のようだった。
青年はためいきをついた。
1ページでも多く読んでおきたいのだが、目の前の少女がそれを望んでいない。
仕方なく、キールは読書を諦める。
「ねえ。
アイシュの好きなものって知ってる?」
芽衣が尋ねる。
「何で俺に聞くんだ?」
キールは顔をしかめた。
「だって、兄弟じゃん。
知らないの?」
焦げ茶色の瞳がパチパチと瞬きする。
「本人に聞けば良いだろう?」
「ええ!
キールは、アイシュの弟なのに、知らないの?」
無知を咎めるように言う。
「関係ないだろ。
第一、何だってそんなことを聞くんだ?」
苛立ちながら、キールは言う。
「だって、もうすぐアイシュの誕生日じゃん」
芽衣はしごく当然だという顔をして言った。
それで、キールは自分の誕生日が『もうすぐ』だということを思い出す。
アイシュとキールは同じ日に生まれた、双子の兄弟だ。
性格、才能。
ありとあらゆるものを比べ続けられ、優劣をつけられた……双子の兄弟だった。
キールはいつだって『アイシュの弟』だ。
成人し、別々の職に就いている今も、それは変わらない。
その逆はなかった。
アイシュが『キールの兄』であったことなど、なかった。
常に、アイシュはアイシュだった。
誰もがキールよりも兄と親しくなることを望んだ。
親交を深めるために、踏み台にされることもあった。
青年の口に、乾いた笑みがつく。
「だから、キールなら知ってると思ったんだけど。
ホントに知らないの?
アイシュの好きなもの」
無邪気に芽衣は問う。
だから、がどこからつながるのか。
キールには皆目見当がつかなかった。
「他に、誰に聞こう。
殿下とかシオンなら知ってるかなあ」
芽衣は困ったと腕組みをする。
「甘いもの」
キールは答えた。
「へ?」
「甘いものが好きだったはずだ」
どうせ、答えにたどりつくだろう。
だとしたら、ここで隠すのは得策ではない。
「ホント?
ありがとう、キール!」
少女はパッと顔を輝かせる。
助かったぁ、と芽衣は指を祈るように組む。
「でさぁ。
このことなんだけど……」
「兄貴に内緒にしておけばいいんだろ?」
「さっすがキール。
話が早い、早い♪
よろしくね」
愛らしく芽衣は笑う。
キールは大げさにためいきをついた。
そんなことをしても、胸の内のモヤモヤは晴れたりはしなかった。
◇◆◇◆◇
青い空が天井のように、頭上に大きく広がっていた。
見事に晴れ上がった空を恨めしく思う。
20回目の誕生日を散々な気分で、青年は迎えた。
その右手には一通の封書。
文字を習い始めた子どものような、たどたどしい筆跡で『招待状』と書かれている。
キールは会場に指定された場所の前で立ち止まった。
「兄貴」
予想外の人物だった。
その左手には、一通の封書があった。
封筒も筆跡もそっくりだった。
おそらく中身も同じだろう。
「ああ、キール〜。
こんなところで会うなんて、奇遇ですね〜」
「何だって、こんなところにいるんだ?」
キールは驚いた。
ここはセリアン宅の前だった。
二人の『家』の前で出会うのは、不自然だった。
王都に越してきてからは、キールが『家』に帰ってきて、アイシュは『家』で出迎える。
それが固定されていた。
家の前で会うのは、これが初めてだった。
「昨日は仕事があって、王宮に泊まったんです〜。
そこでこれが届けられて、帰ってきたんです」
アイシュは穏やかな物腰で話す。
優秀な文官である兄が泊まるほどの仕事。
胡散臭かったが、キールは追求しなかった。
「ああ、そうでした〜」
アイシュは微笑んだ。
嬉しそうな顔をして、双子の兄は言う。
「誕生日おめでとう、キール」
手の中で音がした。
紙が曲がる音。封書が折れ曲がる音。
自分の器の小ささを自覚させる音。
キールは大きく息を吸い込む。
敵わない、と思う。
誰もが兄を選ぶのは、仕方がない。
愉快ではない状況だが、それほど不快ではない。
「兄貴もだろ。
双子なんだから」
キールは視線をそらした。
「ああ、そうですね〜」
アイシュはのんびりと相槌を打つ。
「二人とも遅っーい!
せっかく芽衣様が用意して待っていてあげたって言うのに」
真っ白なエプロンをつけた少女が門から飛び出してくる。
「もう。男二人で盛り上がらないでよね。
さあ、入った入った!」
芽衣の勢いに押されて、アイシュとキールは、自分たちの家に入る。
一歩踏み込んだ瞬間から、甘い匂い。
キールは思わず、眉をひそめた。
ある程度、予感はしていたが、実際にかぐとなると、話は別だ。
いつもなら、文句の一つでも口にするところだったが、せっかくの誕生日だ。
台無しにするわけにはいかない。
匂いの元凶に近づいていく。
誕生祝いとして完璧に整えられた食卓があった。
花瓶には花が生けられ、テーブルの上にはドンとケーキが鎮座している。
氷の入った器に入ったカラフェ、整然と並ぶ銀のナイフとフォーク。
「すごいですね〜。
芽衣、一人で用意したのですか〜?」
「ちょっと手伝ってもらっちゃったけど。
あ、でも、ケーキは一人で焼いたんだよ。
アイシュが甘いものが好きって、キールから聞いて。
それで」
「そうなんですか〜。
ありがとうございます。
こんなに嬉しい誕生日は、初めてですよ〜」
アイシュは大げさなことを言う。
キールはためいきをついた。
「はい、キール」
芽衣はテーブルの上に載っていた包みをキールに差し出す。
ピンクのリボンをかけた包みは、平べったい。
「これはキールの分」
「は?」
「アイシュがキールは本が好きだって言ったから。
いつも本に囲まれているから、さらに本を渡すのは……とは思ったんだけど。
でも、好きなものを貰うのって嬉しいでしょ。
キールが普段読まないような本にしてみました」
芽衣はニヤッと笑い、包みを押しつける。
「二人とも、誕生日、おめでとう!」
裏も表もない言葉だった。
芽衣は初めから、二人の誕生日を祝うつもりだったのだ。
勝手に想像して、勝手に不機嫌になっていた。
空回りもいいところだ。
勘違いだったのだ。
キールは芽衣から目をそらした。
すると、同じ色の双眸と視線が合う。
分厚い眼鏡の奥の瞳は穏やかだ。
何でもわかった顔をして、双子の兄がうなずく。
キールは呆れたように、困ったように、微笑んだ。
20回目の誕生日は、記念すべき日となった。
何度でも思い出す、幸福な記憶の日となった。