「ヤッホー、お父さん♪」
三つ違いの娘は、元気良くドアを開け放つ。
『父』と呼ばれた青年は無視して、本を読み続ける。
栗色の髪を揺らして、少女は青年に抱きつく。
「元気?」
少女はキラキラとした笑い声を振りまく。
毎日顔を合わせているのだから、『元気?』とわざわざ確認しなくても良いような気がするのだが、明るく元気で前向きな少女はそうは思わないらしい。
亜麻色の髪の青年は、ようやく本から顔を上げた。
それからためいきを一つ。
「お前は元気そうだな」
緋色の魔導士と呼ばれ、他人から敬遠されがちな青年は、柔らかく微笑んだ。
慈愛に満ちた眼差しとでも言えば良いのだろうか。
『娘』に向けるその視線は愛しさであふれていた。
「うん、元気♪」
来訪者と呼ばれ、けして心地よい生活環境ではないはずなのに少女――芽衣は、笑う。
「そいつはけっこう」
青年は、芽衣の頭を優しく撫でる。
術の補強をかねた、朝の挨拶だ。
少女は嬉しそうにハシバミ色の瞳を細める。
「で、何の用だ?
今日は日曜日だが」
キールはそっけなく訊いた。
「お父さん孝行しようかと思って」
そんな彼の態度に頓着せずに、芽衣は言った。
「……で?」
トラブルの予兆を感じながら、キールは先を促す。
「ワタシの国では父の日ってのがあるの。
たしか、アメリカだったっけかな、発祥の地は」
「あめりか?」
「ああ、国の名前。
海の向こうの大陸」
「やはりお前の国の文化はすごいな」
キールは感心する。
この世界では他国の文化が一般市民までは浸透することはほとんどない。
海の向こうの地を知らずに終わる人間も少なくはない。
「そう?
でね、お父さんに感謝する日なの」
「なるほど」
「黄色いバラとか、黄色いカーネーションとか、贈るらしいんだ」
「らしい?」
「うん。
贈ったことないもん」
芽衣は言い切った。
「あっちに、父親いたよな……?」
キールは念のために確認する。
複雑な家庭環境が潜んでいないことを願いつつ。
「うん、いるよ。
元気、元気〜♪」
「……何で、花を贈ったことがないんだ?」
「花言葉が良くないから」
「は?」
「黄色いバラは嫉妬。
黄色いカーネーションは軽蔑。
あんまり良い花言葉じゃないんだよね」
「どうしてそんなものを贈るんだ?」
「さあ?
良くわかんない。
黄色って、旅人の無事を祈る色らしいから。
その辺が理由だと思うけど」
「まさか、俺にそのバラとか、カーネーションを贈る気か?」
「ううん。
イヤでしょ?そういうの。
だから、キールの喜ぶことをしようと思って。
でも、何をしたら嬉しいのか、良くわからなくて、来たの。
何して欲しい?」
芽衣は真剣に言った。
「今日一日、何も問題を起こさず、俺に静かな読書の時間を与えてくれれば十分だ」
キールはためいき混じりに言った。
そんなことは無理だと言うことは、よーく身にしみている。
彼女と会ってからと言うもの、トラブルに巻き込まれなかった日は一日たりともない断言できる。
「えー、それじゃあ意味がないよー。
ワタシがキールに、何かしてあげたいんだから!」
「気持ちだけ受け取っておこう」
小さな親切、大きなお世話。
世にはそんな名言もある。
「だーかーら。
意味がないの!」
芽衣は怒鳴る。
思う通りにならずに、かんしゃくする一歩手前。
ぱちっと火がはぜるような音が耳にかすめた。
危険信号だ。
この部屋が火事になるかもしれない。
キールはためいきをこぼした。
「どこか、出かけるか」
キールは、本を閉じた。
◇◆◇◆◇
二人が向った先は意外にもと言うか、郊外の森だった。
芽衣が選んだにしては珍しい。
キールは首をかしげる。
芽衣は人と話すのが好きで、にぎやかな場所を好む。
広場や大通り、彼女は街を歩くことを喜んだ。
しかし。
ここは……。
キールは仰ぐ。
蒼穹を覆い隠すほどに枝葉を広げた緑。
夏の名残は煌きを散じ、森は秋を迎えようとしていた。
「いつ来ても、ここは静かだね」
そう言った少女の声も普段よりも抑え目で。
独特の静寂感にふさわしいものだった。
「そうだな」
キールはうなずいた。
森の空気は呼吸を楽にしてくれる。
キールは肺いっぱい空気を吸い込む。
すっと、体が楽になった。
どれだけ自分が張り詰めていたかわかる。
己の未熟さに対面し、少し恥ずかしかった。
「キールって、ずーっと本読んでるんだもん。
たまには森林浴しないとね。
緑って、疲れた目に良いんだよ!」
芽衣は笑いながら、森の小道を歩く。
彼女の博識ぶりに、キールはいつも驚かされる。
文明の差だ。
遠くにいる人と簡単に話すことができ、夜でも真昼のように明るい室内。
暑さも寒さも自在に調節できる家。
そんなことが常識として育ってきたのだ。
彼女とキールは住んでいる世界が違うのだ。
「本を読むのは趣味と実益だ」
「それにしたって、最近の量、おかしいよ。
ほとんど寝てないって聞いたけど?」
「誰から?」
「アイシュとか、シオンとか」
芽衣は素直に答える。
余計なことを……、キールは無意識で拳を握る。
「少し気になることがあって、研究しているだけだ。
魔導士なら大なり小なりこんなものだ」
極力、顔色に出さないようにキールは言った。
「娘から言わしてもらえば、心配なんだから」
芽衣は足元の石ころを蹴った。
『心配』
彼女の口から出ると、違和感のある単語だ。
少女は常に心配される側だからだ。
キールは少しだけ反省した。
心配をかけるほど、根を詰めていたのか、と。
今度からは芽衣にバレないようにしなければ、と頭の片隅で思った。
「気をつけよう」
「約束だからね!」
芽衣は言った。
たやすく約束を交わそうとする少女。
信じているのだろう。
破られることはない、と。
「ああ、約束だ」
キールはうなずいた。
初めから果たせないとわかっているのに……約束する。
少女の誠意を踏みにじる。
それでも、キールは研究の量を減らすことはできない。
もう、始めの一歩は踏み出してしまった。
キールは走り続けるしかない。
目の前の少女を平穏な世界に帰す。
そのために。
「絶対だからね!」
芽衣は念を押す。
「絶対だ」
キールは微笑んだ。
絶対、帰してやる。
元の世界へ。