「お父さん、お父さん!」
不愉快極まりない呼びかけに、緋色の魔導士キール=セリアンは読書を中断された。
若き魔導士は速やかに無視することを決める。
「お父さん!」
ドア越しに呼びかけはまだ続く。
院内に響き渡るぐらいの大声で。
キールはためいきを一つ。
読みかけの本を閉じ、立ち上がる。
断っておくがキールはまだ十九歳で、結婚したことも、子供ができるようなヘマをした覚えもなかった。
ちなみに養子をもらった覚えもない。
よって、この呼びかけは間違っている。
が、しかし……。
キールは乱暴にドアを開けた。
「何の用だ?」
不機嫌にキールは問う。
聞かなくても用件の見当はつく。
違ってほしいというささやかな願いだ。
キールと歳が大して違わない灰色の肩掛けをした男は、一瞬ビクッとたじろくが、すぐまた気を取り直した。
「あなたのところの娘さんが、例によって大問題を起こして」
「どこだ?」
「練習場です」
男は告げる。
キールはそれだけ聞くと十分だというように、ズカズカと練習場に向かった。
繰り返すが、キールには子供がいない。
少なくとも、こんな大きな子供はいない。
何せキールの娘と呼ばれているのは、れっきとした十六歳。
つまり、成人した女性なのだ。
彼女は練習場の中央で、困ったように笑っていた。
「今度は何したんだ?」
日に一回の割合で起こされる大騒ぎに、キールはげんなりとしながら問う。
彼女――彼女が生まれた国風に呼べば藤原芽衣――は、目を泳がせる。
キールは室内を一瞥する。
眼鏡の奥のホーリーグリーンの瞳が見開かれる。
心臓が凍りつく。
そんな感覚をキールは味わった。
煉瓦造りの壁に、歪なへこみ。
強力な魔法プロテクトが掛かっているはずの壁が、黒焦げになっている。
本来、あってはいけないはずのものだ。
が、それは存在していた。
「エヘッ」
キールの心を知らずに、芽衣は笑った。
「ちょっと、失敗しちゃった」
元気に彼女は、言った。
……無事でよかった。
どこも損なわれていない。
キールは安堵した。
口にした言葉は全く違うものだったけれども。
「これのどこがちょっとなんだ?」
キールは黒焦げを指す。
「だってー」
「だってじゃない!
どうして、お前は自分の魔力を制御できないんだ?
制御できないなら、初めから使うんじゃない。
今日はたまたま、運良く、対象物が壁だったから良かったものの、人間に当たったらどうするつもりだったんだ?
運が良くて、大火傷。さもなければ、即死だ!」
キールは怒鳴る。
さすがの芽衣も事の深刻さを理解できたのか、うなだれる。
「今後一切、実技の訓練を禁止する」
実技が好きな芽衣にとって、厳しすぎる罰を与える。
彼女の魔力は人が宿すにしては、桁外れだ。
一朝一夕の訓練では、制御できるはずがない。
大変な努力をしているにもかかわらず、彼女は劣等生に甘んじるしかない。
「今日は別の課題を与える。
ここの片づけが済んだら、俺の部屋まで取りに来るように」
「はい」
芽衣はしょげながら、返事をした。
キールは本棚の前で悩む。
変更になった分の本を選ばなければならない。
芽衣は読める文字に制限がある。
彼女にとって全く見たことのない文字を習い始めて、かれこれ三ヵ月。
一般的なものは読み書きができるようになったが、魔導書ともなれば話は別。
迷った末に、キールは一冊の本を抜く。
「そろそろ、これぐらいの本なら読めるだろう」
魔法の基礎理論をまとめた本だ。
理論を体系ごとにまとめた魔法の総論的な高等な魔導書だ。
入門書並みに平易な文体と、良質な理論と理念の構成が特徴的な名著だ。
キールもかつてこの本の世話になった。
ただ。
魔法を習い始めて、一年以上経ってからだった。
芽衣の吸収率には目を見張るものがある。
常人の数倍の速さで、魔法を習得していく。
何年もかけて修行を積むところを、芽衣は駆け足で登っていってしまう。
力に知識が追いつかないため、今日のような暴走を巻き起こすが、それも後しばらくのことだろう。
ほんの先の、未来。
彼女は制御を覚え、世界有数の魔導士になっていることだろう。
芽衣はキールよりも高みにたどり着く。
「そうしたら、お役目ごめんだな」
肩の荷が下りる。
今日のように、読書を邪魔されることはなくなり、静かな一人の時間がやってくる。
キールは息を吐き出した。
トントン
二回のノックの後、ドアが開く。
「やっほー、キール♪」
にこちゃん笑顔で芽衣が入室する。
先ほどまでの暗さは微塵も感じさせない。
元の芽衣の笑顔だ。
切り替えの早さにあっけに取られる。
「ほら、これが課題の本だ。
明日までにレポート三枚。
終わったら自由にしていい。
くれぐれも殿下たちに迷惑かけるなよ」
キールは本を手渡す。
「怒らないの?」
芽衣はびっくりしながら言った。
「……怒られたいのか?」
「ううん」
芽衣は首を横に振る。
肩口で切りそろえられた短い栗色の髪が揺れる。
子供じみた仕草が妙に似合う。
「変な奴だな」
「そう?」
「ああ」
キールは肯定する。
「ねー、課題ここでやっちゃダメ?」
芽衣は可愛らしく首をかしげる。
「はあ?」
「キールの部屋で、コレ読んじゃダメ?
やっぱり」
「別に構わないが」
「ホント?
やったー!!」
芽衣はニパッと笑うと、キールの寝台に本を抱えて腰掛ける。
「何で俺の部屋なんだ?」
キールは自分の椅子に座る。
「何か、落ち着くんだもん。
それに自分の部屋でやってると、つい遊んじゃうし。
キールの目の前なら、程よく緊張感があるし。
あと、すぐ辞書があるからかな?」
芽衣は本を開く。
「お前の部屋にも辞書ぐらいあるだろう?」
「でも、聞いても答えてくんないもん」
「ちょっと待て、辞書って俺のコトか?」
「うん」
「師匠に向かって、そんなことフツー言うのか?」
「だって、ホントのことだもん」
「……絶対、聞かれても答えないからな」
「どこまで、もつかなー?」
芽衣はケラケラ笑う。
キールは背を向けて、本の続きを読み始める。
部屋の中は、無音に近くなる。
時折ページをめくる音がかすかに響く。
「ねー、キール。
はおぬほう?って何?」
「はつおんほう。
発音法、だ」
キールはページをめくりながら答える。
「ふーん。
……じゃあ、ツ?フ?ってどういうこと?」
「ああ、それは唇を動かさずにブレスで発声する音だ」
「へー、英語みたい。
……」
クスッと芽衣は笑う。
「ん?」
「キール、ちゃんと辞書してる」
「あ?」
キールは言われて、しまったと思う。
バツ悪そうに、ズリ落ちてきた眼鏡を直す。
「他人には、このこと話すなよ
特に、シオン様には」
「何で?」
「お父さんですら迷惑なのに。
辞書呼ばわりされたら、王宮を歩けない」
キールは芽衣を見る。
「……お父さんって呼ばれるの、そんなにイヤ?」
「当たり前だ。
こんなに大きな娘はいらん」
「そんなこと言わないでよ。
娘的には、ショック〜」
芽衣が笑いながら言う。
「勝手にショック受けてろ」
◇◆◇◆◇
あの日は良く晴れた日曜日。
お茶会にぴったりな昼下がり。
第二王女主催のティーパーティー。
何故か自分まで呼ばれて行ってみれば、不思議な顔ぶれだった。
摂政殿下から騎士見習いに吟遊詩人。
階級が違う人間たちが一堂に会している。
悲しいことに見知った顔ばかり。
キールは断ることも、途中退出もできずに、聞き役に徹さずにはいられなかった。
一級品の茶菓子を、これまた一級品のお茶で、何の感慨もなく流し込む。
話半分で、頭の中は研究のことで忙しかった。
が、しかし。
「キールと芽衣は仲良しなんですのね。
二人が恋人同士という噂は本当ですの?」
この国の第二王女はとんでもないこと聞いてくれた。
「……はあ?」
キールは不機嫌に聞き返した。
まるで、その話が初めて耳にしたかのように。
噂はもう何日も前から、まことしやかに流れている。
家族でもない成人した男女が年がら年中、一緒にいるのだ。
お互い独身で、年周りもちょうど良い。
噂が立たないほうがおかしい。
キールと芽衣はそのぐらい不自然な関係なのだ。
「ほう、それは初耳だな」
穏やかに言ったのは、怜悧な美貌の摂政殿下。
嘘つき、とキールは心の中で思う。
「で、ホントのところはどうなんだ?」
ニヤニヤと笑いながら宮廷魔導士が聞く。
「根も葉もない噂ですね」
キールはきっぱりと否定する。
「そうなんですの?
残念ですわ」
ディアーナはため息混じり言った。
残念ってどういう意味だ?
キールの顔が引きつる。
「芽衣はキールのことは、やっぱり友達なんですの?」
ディアーナは聞いた。
「へ?
キール?」
芽衣はきょとんとする。
しばし、芽衣は考え込む。
微妙な間。
考え込む必要なんかない問いだった。
ここできっぱり否定してしまって、今後この話題が出ないようにすることが上策だった。
それが、自分のためであり、彼女の名誉のためでもあった。
キールはイライラした。
「……キールはお父さんってカンジかな…?」
芽衣はポツリッと言った。
………………。
何とも言えない沈黙が場を支配する。
どっと笑う者。
…そして、笑いをこらえる者。
「いくらなんでも、それは少し酷すぎるのでは」
控え目にシルフィスは言う。
「どうして?
キールと一緒にいると、落ち着くし、頼りになるし」
ニコニコと芽衣は言った。
「せめて、兄さんとは言えないのかな?」
イーリスが微笑みながら言った。
「断然、お兄さんよりお父さんだよ!」
芽衣は力説する。
皆、同情するような目をキールに向ける。
キールはため息をついた。
恋人同士という噂はかき消されたが、以来キールは「お父さん」なのだ。
◇◆◇◆◇
本を読み終えて、ふと寝台のほうに目を向ける。
芽衣は本を抱えて眠り込んでいた。
「落ち着くのにもほどがあるぞ」
キールは呆れる。
無防備に眠る少女から本を取り上げ、読みかけのページにしおりを挟む。
本はナイトテーブルの上に積み上げ、芽衣の体を静かに横たえる。
「俺が男で、自分が女だって自覚……あるわけないか。
何たって、お父さんだからな」
キールは芽衣を起こさないように気をつけながら、寝台に腰をかける。
真っ直ぐな栗色の髪をそっと梳く。
本を抱えたまま眠るなんて、よほど疲労が蓄積しているのだろう。
慣れない世界で、頼りになる人間にもいない。
日々、神経を張り詰めて……。
「あんまり、心配させないでくれ。
お前に元気でいてもらわないと困るんだからな……」
キールは呟いた。
元の世界に戻るまで、元気にすごしていてもらわなければならない。
彼女が生まれて、育った世界。
そこでかつて、毎日繰り返し呼んでいただろう、彼女が「お父さん」と呼んだ男性に帰す日まで。
寄せられる絶大な信頼を裏切るわけにいかない。
「せめて、近所のお兄さんぐらいにしてくれれば良かったのに」
キールはかすかに笑った。