女王試験の開始が高らかに告げられてから、まだ4日目のある日。
女王候補のアンジェリーク・リモージュは、庭園のベンチに座っていた。
少女お似合いのピンク色のファイルを膝の上に乗せて、パラパラとめくっていた。
ただし、見ているだけで、きちんと読んでいない。
はっきりと目に見えるほど、少女は疲れていた。
ここ連日の彼女にとっては大騒動に、心がついていってないのだ。
アンジェリークは、どこにでもいそうな普通の少女だった。取り柄といったら、明るいところぐらいで、どうして女王候補に選ばれたのか、本人も周囲もわからない。同じ候補生のロザリアとは正反対。
スモルニィ女学院に通っていたのは、制服が可愛いからと言う単純明快な理由だけだった。宇宙の女王を養成する学校だ、と知ったのもつい最近のこと。
高校二年の半ばで、聖地に召還され、家族と友だちに別れを告げた。
本当につい最近のことなのに、何だか大昔のことのように感じた。
育成のことなんて、わからない。
女王補佐官のディア様に、とりあえずの方法は習った。
でも……。
アンジェリークは、ファイルを意味もなくパラパラとめくる。
試験に協力してくれる方々が並んでいる。
緑の瞳に映る。
紙がパラパラと。
まだ、会っていない方がいらっしゃる。
少女の中で、焦燥感が湧き上がる。
パラパラと紙が……。
見ていた書類に影が落ちた。
「あー、こんにちは。アンジェリーク」
のんびりとした男性の声も降ってくる。
アンジェリークは、顔を上げた。
声から予想した通りの、全体にのんびりとした雰囲気の男性。
背はそう高くなく、深緑のゆったりとした衣服をまとって、頭に布を巻いている。
庭園を歩く人々とは全く違う、民族衣装か、時代劇の役者のような格好の青年。
間違いなく女王試験の関係者。
それなのに、それなのに……。
アンジェリークは思い出せなかった。
確実に会ったことがある。
……紹介されたことがある。
見覚えはあるのだ。
森の湖で会った。
森の湖の別名を知らなくてって、すごいあせっていた人。
それは記憶に新しい。
けれども、名前だけがスコンッと記憶から抜け落ちている。
アンジェリークはパニックを起こしながらも、失礼にならないように冷静に努めた。
彼は笑った。
人のことを馬鹿にするのではなく、困ったときに浮かべるような笑顔でもなく、ふっと笑ったときの自然な笑顔だった。
その温かな笑顔にアンジェリークの心も少し落ち着く。
とりあえず、あいさつをしよう。
「こんにちは」
アンジェリークはニッコリと笑った。
条件反射のように、あいさつをすると笑顔になる。
「良い挨拶ですねー。
気持ちの良い挨拶は、こっちまで元気が伝わってくるようですよー」
外見通りの穏やかな声。
ブルーグレーの瞳が、優しく細められる。
「私は地の守護聖のルヴァです」
青年はのんびりと自分の身分を明かした。
アンジェリークはかぁーっと赤面した。
「すみません!」
少女は立ち上がって、深々と頭を下げた。
その際、膝の上からファイルが滑り落ちて、挟んであった資料ともども、地面に散らばった。
穴があったら、入りたい。
名を忘れたばかりではなく、そのことを相手に知られてしまった。
「忘れていたワケじゃなくて!
……本当に、ごめんなさい!!」
どんな気持ちだろう。
名を忘れられる……なんて。
自分だったら、すっごくイヤだ。
失礼なことをしてしまった。
この場から逃げ出してしまいたい。
「顔を上げてください」
静かな声。
少女は叱られるのを覚悟して、そろそろと顔を上げた。
地の守護聖ルヴァは、地面に落ちたファイルを拾い、ホコリを払うと少女に差し出した。
「大変でしょう。
慣れない環境で、毎日が新しいことの連続で」
ルヴァは穏やかに微笑んだまま言う。
アンジェリークはホッとした。
目の前の人は、怒ってないようだった。
それどころが、自分を気遣ってくれる。
「えーっと、全部で14人ですかー。
名前を覚えるだけでも一苦労でしょう。
気にしないでくださいねー」
ルヴァは言った。
「本当にすみません」
アンジェリークは、ペコリとお辞儀をする。
「良いんですよー。
誰だって、いっぺんにできるはずがありません。
ちょっとくらいの失敗はつきものですよー。
それに」
「?」
「もう、私の名前を忘れたくても、忘れることはできないでしょう?」
楽しそうにルヴァは言った。
確かにその通りだった。
なかなかないような、出来事だった。
それこそ、一生忘れるようなことができないような。
少女はクスッと笑う。
「試験、頑張ってくださいねー」
「はい!」
アンジェリークはファイルを受け取った。
翌日。
土の曜日の午後。
与えられた部屋の中で、金の髪の少女は真剣に悩んでいた。
緑の瞳のその先には、写真が美しい薄い本。
ロザリアに負けたから、険しい表情をしているのではない。
自分の大陸の一番の望みが「地」の力だったということは、若干関係していた。
望みを叶えなくても、大陸はある程度まで発展する。
急ぐ必要はない。
月の曜日になったら、すぐに行かなければならないわけでもない。
さっきまで、地の守護聖に会わずにすむ方法を考えていた。
けれども、新米女王候補には、大陸の民の願いを無視し続ける勇気はなく――。
現在読んでいる本の表紙には
『簡単にできる便利なお菓子』とデカデカと書いてあった。
アンジェリークが自分の家から持ってきた、数少ない私物の一つだった。
「ルヴァさまは何がお好きなのかしら?
わたしがつくれる中で、一番おいしそうに見えるものは……」
どうせ月の曜日に会いに行かなければならないのなら、少しでも点数を稼がなければ。
打算も入り混じった乙女心。
「よし、これにしよっと!」
日の曜日。
寮のキッチンで、少女はパタパタと忙しそうにしていた。
タイマーが鳴り、慌ててオーブンから天板を出す。
それから、微妙な表情を浮かべて、天板から皿へ、クッキーを移した。
丸と言うのもおこがましいほど、いびつなクッキー。
大きさがバラバラなので、火の通りも均一ではなく、ちょうど良い色合いのもあれば、端がこげているものもある。
アンジェリークは味見をして、見た目の良いものを集める。
かわいらしいお菓子用のラッピングに詰めると、かばんの中にしまう。
エプロンを外して、洋服が粉まみれになっていないかチェックすると、少女は聖殿に向かった。
目的は、もちろん。
地の守護聖の執務室。
アンジェリークは緊張しながら、その扉を押し開いた。
室内では、ルヴァは惑星儀をクルクルと回していた。
「こんにちは」
少女はニコッと笑った。
「あー、こんにちは、アンジェリーク。
今日は育成も妨害もしない日ですよー」
ルヴァは穏やかに微笑む。
「これ、受け取ってください」
アンジェリークは、クッキーを差し出した。
いつまでも青年の前にいたら、また失礼なことをしてしまうんじゃないか。
そんな気がした。
だから、少女は相手の言葉を待たずに、来た道を引き返したのだった。
8日目。月の曜日の午後。
アンジェリークは昨日よりも緊張した面持ちで、地の守護聖の執務室の前に立った。
大きく深呼吸。
失敗しませんように。
完璧な女王候補らしく。
ノックをしようと軽く腕を上げた瞬間。
扉の方が開いた。
予想外の展開に、緑の瞳をさらに大きくして、少女は驚いた。
「あー、大丈夫ですか?」
ブルーグレーの瞳は柔らかに細めて、青年が問う。
アンジェリークは、無言で首を縦に振った。
「そろそろ来るかなーと思ったら、いてもたってもいられなくなってしまって。
さあ、どうぞ、入ってください」
ルヴァはニコニコと言う。
「失礼します」
少女は途惑いながら、執務室に入った。
ゆっくりと室内を見渡す。
昨日はじっくりと見る余裕はなかったから、これが初めてと言ってもおかしくはなかった。
まるで、図書館みたい、だと金の髪の少女は思った。
「今、お茶を淹れますねー。
椅子に座っていてください」
「はい」
大きなガラスの窓の傍に置かれた椅子に、浅く腰掛ける。
「昨日はありがとうございます。
とても、美味しかったですよー」
お茶の準備をしながら、ルヴァは言った。
「いえ、あの。全然。その。
たいしたものじゃないです」
アンジェリークはしどろもどろに答える。
「懐かしい味がしました」
ルヴァはテーブルの上に、砂時計を逆さまにして置いた。
サラサラと砂が落ちていく。
アンジェリークの気負いを溶かしていくように、サラサラと流れていく。
最後の一粒が落ちきるまでの、わずかな時間。
ゆったりと時を刻む執務室は無口になった。
それがとても心地よい、とアンジェリークは思った。
「どうぞ」
水色も美しい紅茶が、白磁のティーカップに注がれる。
「今日はケーキも用意してあるんですよ」
ルヴァは切り分けたケーキを出す。
「わぁ、美味しそう」
アンジェリークはためいきをつく。
「気に入っていただけて、嬉しいですよー。
お茶が冷めないうちに、どうぞ」
青年は少女の向かい側に座る。
「はい!」
アンジェリークは全開の笑顔を浮かべる。
最初の緊張感はどこに行ったのか。
談笑しながら、アンジェリークは紅茶とケーキを味わった。
「おかわりは、どうですか?
次は違う紅茶を淹れましょうかー」
ルヴァは席を立つ。
「え、本当ですか?」
と言ってから、アンジェリークは当初の目的を思い出した。
今日はご馳走になるためにやってきたのではない。
「他のお菓子もありますよ」
「いただきます。
って、そうじゃないんです!
あの、育成をお願いにきたんです」
アンジェリークは言った。
「育成ですねー。
どれぐらい力を送ればよろしいんですか?」
ポットに茶葉を入れながら、ルヴァは尋ねた。
「少し。お願いします」
「わかりました。
少し、育成をするんですね」
「はい」
危うく忘れてしまうところだった用件を果たせて、アンジェリークは安心した。
「それでは、どのぐらいでしょうか?」
「え?」
少女は目をしばたかせる。
「お菓子と紅茶は、たくさん、ですか?」
ルヴァはにこりと笑った。
「あ……。
はい、お願いします」
赤面しながら、アンジェリークは言った。