セラム

 異例の女王試験も終わり、聖地は穏やかな時間を取り戻しつつあった。
 妹宇宙は、ゆっくりと発展していくことだろう。
 希望的な未来が見えていた。
 茶色の髪の女王も、それはそれは幸せに笑って去っていった。
 そんな微睡むような時間の中、暦は七月に入ったばかり。
 金の髪の女王の機嫌も麗しく……とはいかなかった。
「どうしよう、ロザリア」
 迷い子のような目を青い瞳の女王補佐官にむける。
「ルヴァの誕生日のこと?」
 優雅に紅茶を飲んでいたロザリアは言った。
「どうしてわかったの?」
 アンジェリークは驚く。
 危うくティーカップを取り落としそうになった。
「あなたが悩むことなんてそれぐらいでしょう?」
「ひっどーい!
 私だって、ちゃんと考えながら宇宙の発展をさせているんだから」
 私室だということを存分に活かして、アンジェリークはすねる。
「向上心あふれる女王陛下ね。
 さて、ここに優秀な女王補佐官がいるんだけれども」
 ロザリアはテーブルの上にカタログを乗せる。
「通販? 気持ちがこもっていないような気がするんだけれど」
 翡翠色を瞬かせてアンジェリークは言った。
「下界にいられる時間は限られているから、効率的にね」
 ロザリアは残りの紅茶を飲み干す。
「付き合ってくれるの?」
「私とあなたの仲じゃない」
「ありがとう、ロザリア!」
 テーブルがなければ、抱きついていたような勢いでアンジェリークは言った。
「あなたからもらうものなら、ルヴァはなんでも喜ぶと思うけど」
 ロザリアはカタログをめくりだす。
「たとえば、適当に摘んできたクローバーでもしおりにして大切にしてくれそうよ」
「だから困っているんじゃない。
 何でも、じゃ困るの。
 特別に喜んでほしいの。
 誕生日なんだから」
 アンジェリークは訴える。
 年に一度の特別な日なのだ。
 幸福な気分になってほしいと思うのは、わがままだろうか。
「そうね。
 例えばティーカップなんて、どうかしら?」
 ロザリアは言った。
「たくさん持っていそうよ」
「いくつあっても困らないじゃない。
 それにセラムをこめたら秘密めいていて素敵じゃないかしら?」
「セラム(挨拶)?」
「花言葉よ」
 大切なことを告げるようにロザリアはささやいた。
「ティーカップに描かれている花に意味をもたらせるの」
「すごいわ、ロザリア!
 飛び切り素敵なプレゼントになりそうね!」
 アンジェリークは笑った後、表情に曇らせる。
「花言葉、通じるかしら?」
「女王試験を忘れたの?
 あの時、花をプレゼントされたじゃない。
 それに地の守護聖は知恵と知識の番人。
 その本棚に、花言葉を収めた図鑑がないとは思えないんだけど」
「そうよね」
 アンジェリークは安堵する。
 ロザリアはテーブルの上に花の写真が載っている図鑑を乗せる。
「あなたの方は詳しくないだろうと思って、持ってきたわ」
「至れり尽くせりね」
「だって、私はあなたの補佐官ですもの」
 ロザリアは優雅に微笑んだ。

   ◇◆◇◆◇

 七月十二日は日の曜日だった。
 女王の務めも、守護聖としての役目からも解放される日。
 ただのアンジェリーク・リモージュに戻れる日。
 地の守護聖の執務室をノックする。
 私邸に帰っている可能性も高かったが、ここ最近は聖殿の執務室で本を読んでいることが多かった。
「開いていますよー」
 穏やかな口調に背を押され、アンジェリークは入った。
「どうかしましたかー」
 悠久の時を過ごしているかのような部屋だった。
 候補生時代は、いつかは訪れたいと思っていた場所だった。
 まさか、女王になって入室するとは思っていなかった。
「お誕生日おめでとう」
 用意してきた言葉を言う。
 ブルーグレーの瞳は見開かれる。
「ああ、今日は誕生日でしたか。
 すっかりと忘れていましたよー。
 永く生きると忘れやすくなりますね。
 ありがとうございます」
 ルヴァは微笑んだ。
 青年にとって、何度目の誕生日なのだろうか。
 即位すると、時間の経過がゆったりしたものになるという。
 女王になったばかりのアンジェリークには、まだ実感が湧かない。
 時間から取り残されるというのは、どんな気持ちだろうか。
「誕生日プレゼントよ」
 緑のリボンをかけてもらった箱を手渡す。
「開けてもいいでしょうか?」
「もちろん」
 アンジェリークは緊張した。
 気に入ってもらえなかったら、どうしよう。
 特別になれなかったら……と心臓がドキドキとする。
 箱の中身はティーカップ。
 白磁に青い縁を持つ花が躍る。
 ルヴァの誕生花でもあり『感謝』を意味する花言葉を持つトルコキキョウが描かれている。
「感謝するのは、こちらの方ですよ」
 ルヴァは微笑みを深くする。
 花言葉は通じたようだった。
「このティーカップをルヴァのコレクションに加えてくれる?」
 声が震えないように、気をつけてアンジェリークは言った。
「もちろんです。
 あなたからいただいた物は特等席ですよ。
 飾っておくのも悪いですから、これでお茶にしませんか?
 ちょうどお茶にしようと思っていたんです」
 ルヴァは言った。
「誕生日なのに」
「あなたが選んでくれたティーカップですからね。
 一番に使いたいのです。
 用意してきますから、待っていてくださいね」
 そう言い残すと、ルヴァは奥の部屋に入っていった。
 窓際に置かれたテーブルに着く。
 こうしていると、女王になった実感が起きない。
 まるで、候補生時代に戻ったようだった。
 窓からは黄金の光が差しこんでくる。
 特別になれただろうか。
 並んでいる本たちをながめながら、口を引き結ぶ。
 異例な女王試験も終わり、もう一人のアンジェリークも妹宇宙に旅立った。
 つい先ほどのことだったように感じる。
 これまでよりも、これからの方が永い時間が待っているというのに。
 しばしの平穏の中、心がざわめく。
 茶色の髪のアンジェリークも、こうしてルヴァと一緒の時間を過ごしたのだろうか。
 ふいに湧きあがった嫉妬が胸を焼く。
「お待たせしましたー。
 どうぞー」
 ルヴァはゆったりとやってきてティーカップを差し出した。
 花の柄はシロツメグサだ。
 どんな意味がこめられているのだろうか。
 あれだけ花言葉の図鑑を見たのに、失念してしまった。
 自然とためいきが零れた。
 ルヴァは向かい側の席に着く。
 ティーカップはプレゼントしたばかりの物だ。
「アンジェリークのこと心配?」
 胸の中でもやもやしていたことを尋ねる。
「私にとってアンジェリークは一人きりですよ。
 今も昔も」
 ブルーグレーの瞳が見つめる。
 砂時計の中の砂がさらさらと零れるように。
 永い時間を見つめ続けてきたように。
 悠久な時の中で磨かれた宝石のように。
 ルヴァは穏やかに笑みを浮かべる。
「あなただけです」
 恋の告白のように聴こえて、アンジェリークの心臓はドキリっと跳ねた。
 まるで、心に直接キスされたようだった。
 思わず翡翠色の瞳を紅茶に移した。
 ブルーグレーの瞳を真っ直ぐと見られなかった。
 それから何を話したのか、忘れてしまうぐらいアンジェリークの心はかき乱された。
 親友であるロザリアにも話せなかった。
 勘違いだったら、恥ずかしい。
 けれども、穏やかな時間が来年もあればいいと願ってしまった。
 いつまでも、二人きりで過ごせればどんなにいいだろうか。
 女王と守護聖という枠から離れて。
 アンジェリークは、そんな切ないことを思った。


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