「ルヴァ、付き合って欲しいことがあるの！」
明朗快活な神鳥の宇宙の女王陛下は、地の守護聖の執務室の扉を勢い良く開いた。
白い頬は上気して、癖のある金の髪がほんの少し乱れていた。
「はあ」
報告書を手にしていた青年は、目を瞬かせた。
アンジェリークは膝下丈のドレスを不器用にさばきながら、執務机までやってくる。
女王の正装も押しつけられた感が拭えないが、執務用のドレスでも、それは変わらないようだ。
少女は白い手を執務机に置く。
揃えて置かれた両手は……勢い余っていた。
大きな音がして、インク壷に挿したままの羽ペンが揺れる。
「暇かしら？」
アンジェリークは言った。
「あー、そうですねー」
ルヴァは持っていた報告書を未読の山に戻した。
女王陛下の用件よりも優先させるような、用事は一つもない。
この宇宙を慈愛で包む至高の存在の願いよりも、重いものはどこにもない。
それに……。
「暇ですねー」
「本当？ 良かった！」
金の髪の少女は満面の笑みを浮かべる。
幸せしか知らないような笑顔だった。
それを見て、ルヴァは目を細める。
「じゃあ、来て！」
少女の靴が軽快な音を奏でる。
波打つ金の髪が楽しげに宙を彩る。
その髪には赤いリボンはないけれども、キラキラと輝く。
「早く！ 早く！」
「あー、はい」
ルヴァは立ち上がった。
女王陛下の案内でたどりついた場所は、女王の私室だった。
プライベートで人をもてなすために造られたそれは、執務室に比べるとこじんまりとしていて、肩肘を張らずにすむような調度類が置かれていた。
日差しを軽やかに透かすレースのカーテン、胸の高さほどの小さな棚、アイボリーの丸いテーブルに、曲線的なデザインの椅子。
「さあ、座ってちょうだい」
アンジェリークは椅子を引く。
女王陛下が侍女の真似事をするのは褒められたことではなかったが……それを口にするのは野暮のような気がした。
『付き合って欲しいことがある』と言われて、ここに来たのだ。
これもまた、少女の願いの延長にある事柄なのだろう。
「ありがとうございます」
ルヴァは素直に勧めに乗る。
「そのまま、ちょっとだけ待っていてね！」
少女は早口で告げると、続き部屋に駆けていく。
「はい、わかりましたー」
アンジェリークの背を見送りながら、ルヴァはうなずいた。
パタン、っと続き部屋のドアが閉まる。
青年はテーブルに肘を置き
「変わりませんねー」
と、呟いた。
女王候補として出会ったときから、彼女は変わっていない。
痛みも苦しみも知らないような笑顔に、笑い声。
明るく、元気で、楽観的で。
「本当に……変わりませんね」
女王になっても、変わらない。
落ち着きがないと眉をひそめる者もいるだろう。
威厳が足りないとこぼす者もいるだろう。
ルヴァは笑みを深くする。
これから先、どんな苦難が待ちうけていたとしても、女王と戴く少女は変わらないだろう。
それが、この宇宙にもたらされた『至福』なのだ。
ポキリっと折れることはない。
全部を受け止めて、なおも彼女は笑っているだろう。
幸せしか知らない顔をして。
「あ！」
ドアの向こう側で、澄んだ声が困惑を告げる。
ルヴァはしばらく逡巡したが、席を立つ。
勘というものは、過去の経験から最短で導き出した結論だからだ。
青年がドアを開くと、銀のトレイで両手がふさがった少女が立っていた。
銀のトレイには二客のティーカップと焼き菓子。
「どうぞ」
「ええ」
少女は硬い表情のまま言うと、慎重に歩を進める。
トレイの上の食器が、一歩ごとにカチャカチャと鳴る。
口を引き結んだままアンジェリークは、テーブルに銀のトレイを載せる。
ルヴァは音を立てないように、そっとドアを閉めた。
少女はぎこちない動きで、ティーカップと小皿をテーブルに移し終え、そして銀のトレイに目をやる。
「棚に置いたらどうでしょう？」
ルヴァは声をかけた。
「そ、そうね！」
アンジェリークは銀のトレイを棚の上に置き、肩を落とした。
「完璧のつもりだったの」
少女は青年のほうに体ごと振り向く。
翡翠に似た瞳は真剣そのもの。
「はい」
「でも……失敗」
「そうですかねー」
ルヴァは微笑んだ。
「ところで、このお茶はいただいてもよろしいでしょうか？」
「もちろん！
そのために、ここまで来てもらったんだから」
「それなら成功で良いと、私は思うんですが……ダメでしょうか？」
ルヴァは席につく。
ティーカップはまったく彩色が施されておらず、優美な曲線としっとりとした艶だけで造り上げられていた。
女王陛下が持つには質素なデザインだった。
「では、失礼して」
青年はティーカップを手に取る。
飾り気がないからこそ、お茶の水色が際立って見えた。
黄金を含んだ透明感のある紅色。
胸をすくような爽やかな香りがする。
少女の視線に急かされるように、ルヴァはお茶を飲む。
高い香りとは裏腹に、その味にはくどさがなく、ほんのりと甘い。
「美味しいですね」
ルヴァは言った。
「本当！？」
「ええ、とても美味しい紅茶ですね」
青年が話し終わる前に、少女の顔に笑顔が広がった。
子リスのように俊敏な動作で、アンジェリークは向かい側の席に座る。
「ありがとう！」
アンジェリークは言う。
幸せしか知らないような笑顔で。
「ありがとう、ルヴァ！」
金の髪の少女は笑う。
『付き合って欲しいこと』の意味に気がついて、青年はティーカップに視線を落とした。
侍女の真似事をしてみたかったわけではない。
誰かを驚かせてみたかったわけではない。
悪戯や思いつきじゃない。
「いえ、こちらこそ」
ルヴァは言う。
本人ですら数えることを止めてしまった時間。
現実とズレていく季節。
それでも、今日という『この日』があることを思い出す。
終わりが見えない時の長さの中にある、７月１２日という記号。
青年はお茶を口に含む。
この季節のお茶らしい、重みのない味。
「ありがとうございます」
ルヴァは感謝した。
おめでとう、と言われるよりも、嬉しかった。
今まで、何度も言われた「おめでとう」よりも、深く染み渡る。
過去を振り返るための言葉ではなく、今を見つめている言葉だからだ。
それがとてもとても、心に響いた。