執務を開始するにはまだ早い時間。
準備のために早く執務室に来るのは、研究員時代からの習性なようなものだ。
すでに執務机には紙の書類が載せられていた。
紙を使うのは、古き良き習慣なのだろう。
端末機の方が慣れているエルンストにとっては、あまりありがたくない習慣だった。
「誕生日、おめでとう!」
鋼の守護聖の執務室を紫の瞳の女王補佐官が景気良くドアを開けた。
今日の主役の顔は喜ばしいものではなかった。
「どうしたの?
不機嫌な顔をして」
レイチェルは我が物ののように椅子を腰かける。
「いつも通りですよ」
ためいき混じりにエルンストは告げた。
「そう? 楽しくなさそうな雰囲気だけど。
せっかくの誕生日なのに」
「昨日と変わらない毎日です」
生真面目な男性は他愛のない質問に律儀に答える。
「嬉しくないの?」
紫の瞳が大きく見開かれる。
「誕生日が嬉しいのは十代。
せいぜい二十代前半までですよ」
エルンストは執務机に乗った書類を手に取る。
「ワタシはいくつになっても、嬉しい日だと思うけど」
「それは、まだあなたが若いからです」
エルンストは淡々と言った。
「そんなことないよ」
「価値観の相違ですね」
冷たく切って捨てた。
そんなことでめげるはずのない女王補佐官は話を続ける。
「せっかく陛下も祝いの席を用意してくれたんだし。
まさか欠席したりしないよね」
レイチェルの言葉にエルンストは息を飲む。
公式の場所でもないのに少女は親友を『陛下』と呼んだ。
ささやかな変化だったが、あまり良いとはいえないものだった。
空白の三年間に、何があったのだろうか。
知る事のできない時間が確実に流れている。
エルンストは眉をひそめる。
「守護聖揃っての初の誕生日会ですからね。
無下にするつもりはありませんよ。
こう見えてもいい歳した大人ですから」
心の中に浮かんだ違和感を押しこめて冷静に言葉を紡ぐ。
少女に気取られないように。
「子ども扱いしないでくれる?」
「そんなつもりはなかったのですが。
気を損ねて申し訳ありません」
エルンストは書類を執務机の上に置く。
少女がいては執務が進みそうになかった。
書類を手にしたものの、内容が入っていかない。
「誕生日会までには機嫌のよい顔を練習してきてね。
陛下を心配させたくないからさ」
レイチェルは言った。
故郷とも、家族とも、別れを告げて、親友と共に聖獣の宇宙に来たことを選んだだけある。
少女はきっと後悔をしていないのだろう。
たとえ『陛下』と呼ぶようになっても。
その強さが羨ましかった。
エルンストには、ないものだった。
「努力します。
それで何の御用ですか?
ご多忙な女王補佐官殿」
エルンストが尋ねた。
レイチェルは椅子から立ち上がり、執務机の前までやってくる。
「誕生祝に来ただけだよ。
はい、プレゼント。
まあ三年分には、ほど遠いかもしれないど」
レイチェルは正方形のプレゼントボックスを執務机の上に置く。
真っ白の包装紙に包まれ、灰色のリボンがかけられていた。
エルンストの執務服を意識してくれたのだろう。
その気配りが嬉しかった。
「開けてもよろしいでしょうか?」
エルンストはマナーのように尋ねた。
「もちろん」
少女は満面の笑みを浮かべた。
灰色のリボンを解いて現れたのは、コーヒー用のマグカップだった。
「お手数をかけたようで」
白いマグカップは汚れのない象徴のように見えた。
まだ無垢で、どんなところにも飛びこんでいける。
その可能性を示していた。
そこまで、レイチェルが深く考えて選んだとは思えなかったが、エルンストの心が動いた。
「お手数をおかけしたようで」
「こういう時は素直に『ありがとう』って言うもんだよ」
プレゼントの送り主が指摘する。
「そうですね。
ありがとうございました」
エルンストは白いマグカップを手に取る。
「棚に飾らないで、ちゃんと使ってよね。
じゃあ、また夜に」
来た時同様に、嵐のようにレイチェルは立ち去った。
用件のみ伝えるのは、彼女もまた王立研究院に席を置いたことがあるからだろうか。
無駄がないことはいいことだ。
颯爽と部屋を出て行った少女に離れていた三年という歳月を感じる。
少女はほとんど変わっていないというのに、自分は変わってしまった。
白いマグカップを見つめながら、ためいきを零す。
「……三年は長すぎますね」
誰に聞かせるわけではなく独り言を呟いた。
これからは同じ時を刻んでいく。
それが救いだった。
始業のベルが鳴った。
エルンストは白いマグカップを執務机に置くと、書類を手にする。
守護聖らしく、執務をこなすだけだ。
三年分を埋めるように。