鋼の守護聖の執務室の扉が開く。
ノックの音はなかった。
冷たい風が部屋に滑りこみ、快適な室温をかき乱すように。
音のない訪れだった。
「ねえ。エルンスト」
その声は『女王補佐官』らしくなかった。
いぶかしく感じながら、鋼の守護聖は書類から視線を外す。
青年はチタンフレームの端にふれ、持ち上げた。
ペールグリーンに映った少女は、真面目な表情をして……。そして、細い肩が震えていた。
薄く口紅が塗られた唇が開かれる。
「恋の終わる音。って、どんな音だと思う?」
全ての始まりだと思う色をした瞳が、エルンストを見据える。
その場に縫いとめられるような気がした。
暁色の瞳は、真剣だった。
痛いと感じるほどに。
「そのような質問は、他の方を当たられたほうがよろしいのでは?」
自分には不釣合いな問いだった。
恋の相談をするなら、もっと経験豊富で、的確なアドバイスを与えられる人物のほうが良いだろう。
あるいは、話を聴いて欲しいのなら、聞き上手な人物を選ぶべきだ。
少なくとも自分ではない。
エルンストは己というものを良く知っていた。
今の彼女に親身になって、親切をすることなどできないだろう。
気が利いた振る舞いというものができない。
……できないのだ。
「うん」
そうだね。とレイチェルは言った。
唇がわずかに動いて、笑顔らしきものを作る。
視線がすっと床に落とされる。
塵一つない磨き上げられた執務室の床を、紫の瞳は見つめる。
プレーンでフラットな床は、芸術的ではない。
そこには、話題の種になるようなものは何もないのだ。
沈黙が訪れようとしていた。
二人の間に、静かに。
それは落ちようとしていた。
先に耐え切れなくなったのは、エルンストのほうだった。
「コーヒーでもいかがですか?」
執務室の隣に用意されている小さな私室に誘う。
「砂糖とミルクはある?」
少女は顔を上げ、明るい声で言った。
「ええ、もちろん」
エルンストは微苦笑した。
◇◆◇◆◇
聖獣の女王補佐官は、椅子に浅く座り、コーヒーの香りに目を細める。
「良い豆だね」
レイチェルは、マグカップを手で包みこむ。
まるで大切な宝物のように。
「守護聖ですから」
エルンストは微笑んだ。
「今からでも遅くないよ。
どこかの、そう……故郷そっくりの惑星に行っても良いんだよ」
「サクリアが尽きるまで、守護聖としての務めを果たします」
「真面目だね」
レイチェルは小さく笑った。
「決意が固まりました」
「あの子のおかげかな?
エトワール……って特別みたいだね」
ごく普通の16歳の少女の顔をして、レイチェルは言った。
威厳が粉々に粉砕されていた。
柔軟性もずたずたに引き裂かれていた。
女王候補時代の、鼻につくようなプライドの高さもなかった。
「私は不器用なので、あなたの望む答えを差し上げられませんよ」
エルンストは言った。
「知ってる」
レイチェルは、ニコッと笑った。
ようやく、彼女らしい笑顔を見せた。
「何があったのですか?」
エルンストは質問をした。
少女と顔を合わせた時から、訊きたかったことだ。
「……何にも」
砂糖とミルクの入ったコーヒーを愉しみながら、レイチェルは言った。
エルンストの視線に気がついたのか
「ホントだよ。
何にもないんだ。
ただ色々なことがあったでしょ」
「ええ、そうですね」
「だから。……愚痴りたかっただけ」
「その相手に選んでいただけたとは、光栄ですね」
「でしょ」
レイチェルは笑う。
その様子に懐かしさを感じて、エルンストは気がつく。
女王補佐官でもなく、女王候補でもない、そんな時代のレイチェルを知っているのは、この宇宙では自分ひとりなのだ。
だから、選別されたのだ。
消去法にすぎないと理解していたが、エルンストは喜んだ。
「ですが、難問ですね。
恋の終わる音、とは抽象的です」
エルンストは言った。
鋼の守護聖としてではなく、古い友人として力になりたかった。
一回りも離れている年下の友人が困っているのだ。
「聞いたことがない?」
「ありません」
「これまで一度も?」
「一度もありません」
「もしかすると、これがそうだったのかなぁ? って。
そんなのもないの?」
「ありません」
エルンストは断言した。
暁色の瞳がマジマジと見る。
「変なことを訊くけど。
エルンストって、恋をしたことがないの?」
レイチェルは好奇心を丸出しにして、尋ねる。
「恋なら、経験がありますよ」
「え!
あ、そうだよね。
一つや二つは、恋愛経験あるよね。
エルンストの歳だったら、結婚していてもおかしくないんだし」
話のきっかけを作った当人は、困ったように言う。
「理想と現実の差というものでしょう」
エルンストは苦笑した。
「?」
「今でも、自分が結婚できるとは思っていませんよ」
「守護聖だから?」
「神鳥の宇宙では、在位中の結婚は許可されているはずですが?」
エルンストは頭の中で、過去のデータを参照する。
守護聖が在位中に結婚したケースは、数件ある。
「法律を改正するのですか?」
「まさか!」
少女は即答した。
「では、それは理由になりません」
エルンストはコーヒーをすする。
芳醇な香りと苦味が舌を刺激する。
「じゃあ……好きになっちゃいけない人とか?」
「たとえば、陛下が結婚なさると聞いても、私は止めませんよ。
想いあって結ばれるのでしたら、どのような方でも関係ないと思います。
身分や立場で縛られるのは間違っているでしょう」
「エルンストがそんな風に考えているなんて、意外」
「感化されたようです。
色々、ありましたから」
エルンストの言葉に少女は驚き、それから苦笑した。
「そうだね。
ホントに色々あったね」
紫の瞳は遠くを見る。
エルンストが知らない過去を思い返しているのだろう。
身近にいても、違うものを見ていた。
違うものを追いかけていた。
それは今でも変わらない。
エルンストはマグカップに視線を落とした。
恋の相談に乗るようになる。とは、想像もしたことがない未来だった。
「ごちそうさま」
レイチェルは立ち上がった。
「苦くありませんでしたか?」
「コーヒーは嫌いじゃないよ」
プレーンなデザインのテーブルの上に、レイチェルはマグカップを置く。
「陛下が紅茶党だから、すっかり紅茶が好きになっちゃっただけ」
女王補佐官の顔をして、笑う。
いつも通りだ。
「そうですか」
エルンストは見送りのために立ち上がった。
少女の使ったマグカップの隣に、飲みかけのコーヒーを置く。
できるだけ自然に扉を開いて、廊下まで送り出す。
洗練された動作には己の仕草は遠いだろうが、これが聖地のしきたりだ。
「ありがとう」
廊下に出たレイチェルは、明るく言う。
「一つだけよろしいですか?」
エルンストは言った。
「何?」
「抽象的な概念で、私には理解が難しいですが」
エルンストは肺の中の空気を取り替える。
ドアノブを押さえる手が震える。
「恋の終わる音は、聴いてほしくない。
そう思います」
声が震えずに言い切れたことを、神に感謝しながら、微笑んだ。
レイチェルは複雑な表情を浮かべた。
泣き出しそうな、嬉しそうな。
「ありがとう」
「いえ、お力になれないことを残念に思いますよ」
エルンストは言った。
少女は小さく首を横に振った。
「ありがとう」
レイチェルは同じ言葉をくりかえした。
恋の終わる音。
抽象的で、理解が難しい。
感情を分類した場合、それは「悲しい」音に所属するに違いない。
だから、暁色の瞳を持った少女には聴いてほしくない、と思った――。