コーヒー

「おめでとうございます」
 薄い緑色の瞳は、淡々と少女を見つめる。
 健康的に焼けた素肌に、朝焼け空の色を切り取った瞳がおさまっている。
「それだけ?」
 面白くなさそうに肩にかかっていた、金糸雀色の髪をかきあげる。
 研究院の人工光の中、キラキラと粒子を撒き散らしながら、その髪は広がる。
 まるで、女王の一対の翼のように。
 語彙の少ない自分には、もったいないほど美しい光景だった。
 ふと今回の試験の教官の名を思い出す。
 彼だったら、気のきいた言葉の一つでも言うのだろう。
 しかし、エルンストはエルンストだった。

「それだけです」
 生真面目な研究員はうなずいた。
「ふーん」
 レイチェルは唇を尖らせた。
「他にどんな言葉を用意しておけば、よろしかったのですか?」
「たとえば、残念でしたね、とか」
 少女は小首をかしげる。
「残念そうに見えませんよ」
「負けたんだけど?
 慰めてくれても良いじゃない?」
「女王補佐官就任、おめでとうございます」
 エルンストはもう一度言った。
 少女はくすぐったそうに笑う。
「うん、そうなんだよね♪
 試験は負けちゃったけど、楽しかったよ!
 それに新しい宇宙だよ。
 これまでの例にない、未知の誕生をした宇宙に行くなんて」
 暁色の瞳が期待で輝く。
 まだ見ぬ未来を探そうとしている研究者の目だった。
 『女王』よりも、この方が彼女らしい、とエルンストは考えた。
「あんなにぽよよんとした子、ほっとけないよ!
 しっかり者の私が、ちゃんとフォローしてあげなきゃね」
 ニコニコとレイチェルはエルンストを見る。
「応援していますよ」
 男性は言った。

 別れではない。
 これは、新しいスタートラインだ。
 二人の道はすでに、過去に分かたれている。
 たまたま、今回は交差しただけだ。
 今生、最後かもしれない。
 それでも、エルンストは言わない。

「そっちもね♪
 ねえ、エルンスト。
 コーヒーちょうだい。
 王立研究院のコーヒーとも、しばしのお別れでしょ?」
 レイチェルは朗らかに言う。
「すぐにでも、この味に会えますよ」
 紙コップにインスタントコーヒーを注ぎながら、エルンストは言った。
 新宇宙の主星に2番目の建造物は、研究院だろう。
 香りの薄いコーヒーを懐かしむ余裕はないはず。
「どうぞ」
「ありがとう」
 なめるように一口飲むと、レイチェルは顔をくしゃっとゆがめる。
「……美味しくない」
「そうでしょうね」
 エルンストは同意した。
 質よりも量。
 覚醒剤がわりのコーヒーだ。
 味は二の次、三の次。
「アンジェの淹れる紅茶の方が美味しいよ」
「飲みたいと言ったのは、あなたですよ」
「うん。
 それぐらい、わかってるよ。
 でもね、記憶は美化されるんだよ!」
 レイチェルは大きく息を吐き出した。
「残してもかまいませんよ。
 捨てますから」
「最後まで、飲む!」
 渋い顔をしながら、レイチェルはゆっくりとコーヒーを飲む。

 電子時計は無音で時を刻んでいく。
 不揃いな沈黙は、居心地が悪かった。
 かと言って、会話の糸口を見つからず、立ち去る用事も見つからなかった。
 ペールグリーンの瞳は、規則的なタイピングの音のように、演算されていく脳裏をぼんやりと眺めていた。
 
 命題は「コーヒーと目の前の少女」

 どうして、美味しくないとわかっているコーヒーを、苦行のように彼女は飲んでいるのだろうか?
 惜しんでいるのだろうか?
 研究院のコーヒーを。
 目の前の少女には、それは十分な理由にならない。
 何故なら、このコーヒーを惜しむほど別れるわけではない。

 情報が足りない、のだろうか?
 推測に推測を重ねていくのは、危険だった。
 思い込みや、固定概念は、進歩の邪魔をする。

 どうも上手く理論を構築できない。
 それはどうしてなのか、エルンストは正しく理解しているつもりだった。
 
 離れがたく思っている。
 動揺しているのだ。
 新しい局面を迎える前に。
 一つの区切りがつくことを恐れていた。
 予測済みの未来に、予測通りの展開に、嘆いているのだ。
 ただ、プライドが許さなかった。
 理性が感情に、きっちりとふたをする。

「ごちそうさま」
 レイチェルは空になった紙コップを手渡す。
「どういたしまして」
「ありがとう」
 立ち去ろうとしていた少女に
「一つ質問してもよろしいですか?」
 エルンストは引き止めていた。
 未来へと、彼女が翔けていこうとする前に。
「何?」
「どうして、コーヒーを飲みにきたのですか?」
 ペールグリーンの瞳と暁色の瞳が見つめあう。
 長い一瞬きの沈黙。
 視線を逸らしたのはレイチェルが先だった。
 金糸雀色の軌跡を残しながら、彼女は身をひるがえす。
「ないしょ!
 それぐらい、自分で考えなよ!
 エルンストならきっと、答えが出るから♪」
 笑顔で少女は言った。

 それが、最後だった。
 にこやかな笑顔で、彼女は旅立った。
 エルンストは、見送った。


 残されたエルンストは、紙コップを見やる。
 空のコップをゴミ箱に捨てる。
「女性の心は、私には難題ですよ」
 永遠の課題になりそうだ、とエルンストは苦笑した。
 
 一つ希望があるとしたら、その永遠まで時間がたっぷりとあるぐらいだった。
 これは「別れ」ではない。
 新しいスタートラインなのだ。


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