ためいき、一つ

 緋色の肩掛けをした青年はためいきを一つ。
 ガラス越しに見上げるのは、青い空。
 ようやく春めいてきた、柔らかな青の空。ためいきをもう一つ。
 キール=セリアンは悩んでいた。
 どこから見ても、誰が見ても、間違いようがないぐらいに悩んでいた。
 朝から、ためいきをつきっぱなしだった。

 とっくに昼を回り、そろそろ鬱陶しくもなってきたりするのだが、誰も何も言わない。
 正確には、そんな恐ろしいことをできる人間はいない。
 少なくとも、この院の中には。
 そう、この院の中にいないからこそ、キールはためいきをつきまくっているのだ。
 事の起こりは、どこにでもある日々の中で始まった。
 天災魔導士芽衣=フジワラがこう言ったことによる。

   ◇◆◇◆◇

「ねぇ、キール」
 猫のように声が忍びってよってくる。
 それから、すりっと栗色の髪の少女は、保護者兼恋人の首に腕を回す。
 いつものように研究室で本を読んでいたキールは、その手を軽く叩く。
「何の用だ?」
「えへへ。
 どうして、用があるってわかったの?」
 芽衣の明るい声がキールの耳をくすぐる。

「いつものパターンだ。
 こうやって来るときは、何かしら俺に頼みごとがあるときだ。
 しかも……、厄介な部類の」
「えー、そんなこと……ないと」
「言い切れるのか?」
 青年のホーリーグリーンの瞳は、恋人を見つめる。
「たぶん」
 困ったなぁ〜と、芽衣は笑う。
「で?」
 キールは先を促す。
「あのさ。
 お泊り会、行ってもいい?」
「先週も行ったはずだったよな」
「ちゃんと、一晩で帰ってくるよ!
 大丈夫だったじゃん。
 今度も大丈夫だって」
 お願い、と焦げ茶色の瞳が訴える。
 キールはためいきを一つついた。

 去年の秋ごろだろうか。
 『お泊り会』なるものが始まったのは……。
 王宮の第二王女の寝室に、芽衣とシルフィスが招待される。
 夜通し、年頃の乙女たちは、枕を並べて語らう。
 そこでの話は、3人だけの秘密で、どんな話題が出たのか、公言されることはない。
 可愛らしい催し物に、キールは反対していた。
 もちろん、芽衣の秘密主義が気に喰わないのでも、恋人と一晩離れるのが寂しいのでもない。
 いまだ暴走癖のある芽衣の魔法を心配してのことだった。

「行く前に、術の補強をして。
 帰ってきて、すぐに術の補強すれば、大丈夫でしょ?」
 芽衣は言う。
「理論的にはな」
「キールの腕を信じてる」
「…………できるだけ早く帰ってこいよ」
 キールは折れた。
「ありがとう、キール!
 大好きだよ!」
 少女の腕の力が強まる。
 あたたかく、柔らかな感触がどこか遠い。
「あー、はいはい」

   ◇◆◇◆◇

 キールはためいきをつく。
 楽しそうな少女の笑顔を曇らせるのが嫌で、聞き分けよくその背を見送るものの、『お泊り会』には不満だらけだった。
 同性にしか話せない、悩みや出来事はあるだろう。
 今年流行のファッションや、喫茶店のパフェの話をされても、キールにはわからないし、理解する気もない。
 院では、芽衣と同じ年頃の女性は少なく、話が合わないというならば、王宮へ行くのも仕方がないだろう。
 が、しかし。

 キールは読みかけの本にしおりを挟む。
 どうにも研究がはかどらない。
 集中力は途切れ途切れになり、やる気がわかない。
 何をやっても、結果が出ない。
 魔法の制御もままならず、読書ぐらいなら……と思うのだが、文字が頭に入っていかない。
 芽衣がいない日は、いつもこんな感じであった。
 
 キールの不満は、これだった。

 何かと世話が焼ける被保護者がおらず、研究がはかどりそうな一日だというのに、やる気がまったく起きないのだ。
 時間がやたらゆっくりと流れていく。
 キールは、今日何度目かわからない、ためいきをつく。
 いつからこんなに世話好きになったのだろうか。
 双子の兄と違って、他人と関わりあうのが苦手だったはずだ。
 それなのに、今は他人の心配をしている。

「何をしてるんだろうな」

 芽衣は何をしているんだろか。
 そろそろ、帰ってくる頃だろうか。
 ……それ以上に、自分は何をしているんだ?
 時間を有意義に使うことに慣れていたはずだった。
 こんな時間の使い方は、無駄ではないか。
 わかってる。
 けれど、自分の心は、頭以上に素直だった。

 キールは本を閉じ、立ち上がった。
 考えても、答えは出ない。
 だから、青年は研究室を後にした。


 昼とも夕方も呼べないあいまいな時間。
 院の正門に寄りかかり、キールはぼんやりと道を眺めていた。
 一般人が歩くような道ではないので、人通りというものはない。
 院の内側からは、ちらちらと視線が投げてよこされるのだが、キールはまったく気がついていなかった。
 それは両者にとって、幸運なことだった。

 整然と敷き詰められたレンガ道に、軽快な足音が響く。
 硬い靴が奏でる音に、キールは顔を上げた。
 小柄な少女が栗色の髪をなびかせて、走ってくる。
 何がそんなに嬉しいのか。
 とびっきりの笑顔だった。

「ただいまー!」
 芽衣は幸せそうに笑う。
 その笑顔に、青年はためいきを一つつく。
「遅かったな」
 キールはぽんと少女の頭に手を載せる。
 これで、術の補強はされた。
「え、そうかなぁ?
 もしかして、待っててくれたの?」
「暴走されちゃ困るからな」
 青年は薄く笑う。
「あはは。
 大丈夫だって。
 それよりも、キール。
 ただいま、って言ったんだから、お帰りって言ってよ」
 腰に手を置き、芽衣は言った。

「……よく、帰ってきたな」
 小さな背を見送るたびに、思う。
 少女が帰ってくるたびに、思う。
 『王宮では、気をつけろよ』の次は、笑顔の『ただいま』がいい、と。
「当たり前。
 あたしの帰ってくるところは、キールのとこだよ!」
 芽衣はニコッと笑う。
「その割には、遊び歩いているな」
「帰るところがあるから、遊びに行けるんだよ。
 キールには感謝してるんだから」
「そんな風にはちっとも見えない」
 青年は苦笑する。

 少女の手が伸びてきて、キールの胸倉をつかむ。
 無理やり下を向かされる。
 ずり落ちるメガネを気にしている間に、かすめるようにふれた感触。
 確かに、あたたかく柔らかかった。

「感謝の証拠!」
 間近にある顔が、子どものようにニカッと笑う。
「これもキールだけだよ」
 そう言うと、芽衣は身をひるがえし、走り出す。
 小さくなっていく背を見ながら、キールはためいきを一つついた。
 それは日中、彼がつきまくっていたためいきと違い、どことなく幸せそうなものであった。


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