「慣れましたか?」
音楽的な機械音の中、唐突にかけられた声に暁色の瞳はしばたく。
それからゆっくりと小首をかしげ、自嘲気味に笑む。
「エルンスト」
レイチェルは声の主を当てる。
かすかにクセのあるバリトンは忘れがたい。
良い声しているのに、話すことは事務的なことばかり。
それにためいきをついている女性職員が多いことぐらいレイチェルは知っていた。
そう、この聖地でも。
「どうですか?」
少女の目の前に、紙コップを置く。
細く長い指は、白い。
それは日を浴びないからではなく、メラニン色素が少ないためだ。
気を使うように置かれた紙コップを見て、それから男性に目線を移す。
行儀の悪いことだったが、説教をたれるつもりはないらしい。
デスクを挟んだ向こう側にいるエルンストは淡々としていた。
冷たい金属製のデスクが気持ち良くて、このまま眠ってしまいたかった。
目をつぶれば眠れそうな気がする。
自動的に演算され続けるスクリーンに、重いモーター音。
思い出したような繰り返される機械音は馴染みの深いもので、レイチェルの眠りを邪魔しない。
…………そんなことはしないけど。
レイチェルはきちんと体を起こし、紙コップにふれる。
湯気の量から推測される熱量どおりで、少女は眉をひそめた。
「慣れるって、どれに?」
熱いコーヒーを持て余しながら、レイチェルは聞き返す。
「この聖地に」
エルンストは簡潔に答える。
「そういうエルンストこそ、どうなの?」
「一つを除いて、慣れましたよ」
「一つ?」
レイチェルは引っかかり覚えて、訊き返す。
「ええ、一つだけ慣れないことがあります。
それ以外は、慣れましたよ」
「その一つ、て何?」
「私の質問に答えたら、話しますよ」
「隠すつもり?」
レイチェルは唇を尖らせる。
「話をすり替えられては、困りますから」
「言質とったからね」
「かまいませんよ」
エルンストは口元に笑みをはく。
「聖地には慣れたよ。
あっちこっちに行くのは慣れっこだし、ここもあんまり変わんないから。
最初は守護聖さまとかイメージ違っちゃって、びっくりしたけど。
この天才にかかれば、女王試験も楽チンだよ」
少女は言った。
誰だって一ヶ月もあれば、状況を楽しむことができる。
一生に一度のチャンスを逃すほど、間抜けじゃない。
レイチェルはこの聖地を満喫していた。
だから、こんな質問が来ること自体が不満だった。
「あなたが日の曜日の研究院に来る理由を考えていたんです」
「迷惑?」
「と言っても、帰る気はないでしょう?」
「当然でしょ」
レイチェルは二カッと笑う。
「私も、それに慣れましたよ」
ためいき混じりにエルンストは言った。
「で、答えは出たの?」
暁色の瞳をきらめかして少女は尋ねる。
どんな事柄でも、謎や疑問は心躍る。
解き明かすことのできない神秘を求めて、研究院の門を叩いたのかもしれない。
「ホームシックにかかったのではないか、と推測しました」
「は!?」
突拍子もない答えに、レイチェルは大声を上げた。
「研究院特有の音を懐かしんでいるのではないのですか?」
「この機械音を?」
「はい」
「エルンストは、懐かしくなったりするわけ?」
少女は呆れる。
「人生のほとんどをこの音の中で、過ごしています。
落ち着く場所の一つですね」
「それで日の曜日にも、ここにいるの?
ホントに研究を愛してるんだね」
「ええ。
あなたは違うのですか?」
エルンストの問いかけに、少女は居心地の悪さを感じた。
茶化した自分が悪いような気がするのだ。
「エルンストほどじゃないけど、研究は大好きだよ。
今は、女王試験の方がやりがいを感じるから、自分の研究はできないけど」
言葉にした途端、色々な感情が胸に渦巻く。
寂しいような、切ないような……コーヒーのように苦い感情だった。
もう帰れないような気がした。
このまま、あの日常と別れてしまうような気がした。
女王試験が終了して、勝負に勝ったら、女王になるのだから、生活が変化するに決まっている。
宇宙の神秘を解き明かすために奮闘する日常とは違った、スリリングな世界だろう。
もし、負けて……元の生活に戻っても、今までとは違うものになってしまうような気がした。
変化のないぬるま湯のような世界は、御免だけど。
言いようのない、突き詰めると寂しさにつながるような、気持ち。
紙コップの中の黒い液体が揺れ、波紋を作る。
「ホームシックにかかるほど、暇じゃないよ」
少女は背を伸ばして、答えた。
故郷も家族もあるけれど、恋しく思ったことはない。
だから、嘘ではない答えだった。
「それなら良いのですが……、そうなると、新しい仮説を立てなければいけませんね」
「ワタシに直接訊くって、選択肢はないわけ?」
「素直に答えてくれますか?」
「まさか」
レイチェルは間髪入れずに答えた。
「考えるのは嫌いではありませんから、また仮説を探しますよ」
「ふーん」
コーヒーをすすりながら、相槌を打つ。
そうやって一人の人間の思考を独占するのも悪くない、と片隅で思う。
「それで、慣れないたった一つって何?
質問答えたんだから、教えてよ」
「あなたです」
エルンストは言った。
「…………はぁ!?」
思わず聞き流してしまいそうなぐらいあっさりと言われたから、反応が遅れた。
「あなたの行動は突拍子もないですからね。
それだけは慣れません」
「……褒めてないよ、それ」
「褒めたつもりはありません。
事実を述べただけです」
「最悪」
「何とでも、どうぞ。
答えは変わりませんから」
涼しい顔でエルンストは言った。
少女は、しかめっ面でコーヒーを飲みきった。
コーヒーが苦すぎた以外にも、理由があったのは明らかだった。
「ごちそうさま!」
空になった紙コップをデスクに叩きつけるように置く。
「じゃあね」
さっと立ち上がり、身をひるがえす。
「はい、また今度」
エルンストは言った。
習慣のように別れの言葉を言って、聞いて。
それが次につながるような言葉だということに気がつかない。
約束をするように別れの言葉をささやくのは、まだ先のことだった。