もう一人の、私がささやくのです


 昼間は陽光に抑えられている。
 けれども、無防備な夜にくるとそれは目覚める。
 陸遜の左耳にそっとささやくのだ。
 あまりにも、望んでいることだから、うなずきそうになる。
 それでも、踏みとどまることができるのも、それ故に。
 相反する感情は、陸遜の精神をぎりぎりとすり減らしていく。
 そればかりが思考を支配する。
 心も体も、緩やかに崩れ落ちていく。
 ボロボロになりながら、目が離せない。
 死んでしまえば、楽になる。
 しかし、死んでしまったら……彼女と逢えなくなる。
 制御の利かない感情に、理性が引きずられていく。




 世界が黄昏で染まるころ。
 逢いたくて、会いたくなかった人と出会う。
 もうすぐ、夜が来るころだった。
 太陽が大地に呑みこまれていく。
 その最後の煌きに彩られた彼女は、やはり綺麗だった。
 女性にしては短いその髪も、性格が良く出ている緑の瞳も、笑みを刻む唇も。
 はしばみ色の瞳は景色から少女だけを切り抜こうとする。
「あら、陸遜。
 お久しぶりね」
 気安く尚香は微笑む。
 その微笑みも、また綺麗で少年には至福に感じられた。
「はい」
 陸遜はうなずいた。
 当然だ。
 ずっと、避けていた。
 会ったら、変わってしまう予感がしていた。
 心の奥底で、もう一人の自分が目覚めそうになる。

「軍師見習いは、どう?
 忙しい?
 慣れた?」
 明るく澄んだ声が尋ねる。
 その声も綺麗だ、と思う。
「だいぶ、慣れました。
 勉強は楽しいですよ」
「残念だわ。
 つまらないって答えたら、兄さまに頼んで、私の遊び相手に戻してもらおうと思っていたのに」
「それは、申し訳ありません」
「許してあげる。
 楽しんでいるならね」
 尚香は落ちていく夕陽のように儚げに笑う。
 幼友達がいなくなって、さびしがっている。
 それだけだとわかっていても、期待する自分がいる。
「置いてかないでね。
 すぐに追いつくから」
 少女は明るく言った。

「戦場に行くつもりですか?」
「ええ、もちろん。
 安心してね。
 私が総大将できるような小競り合いのときは、軍師に任命してあげるわ」
 尚香は高らかに明言する。
 世界中の緑で染めた水晶のような瞳が陸遜をとらえる。
 こんな檻であるなら、外に出ようとは思わない。
 いつまでも少女の瞳に映っていたい。
「怖いですね」
「楽しみ、って言って欲しいわね」
「楽しみですね」
 陸遜はニコリッと笑う。
「義理でも嬉しいわよ、陸遜」
「そんなつもりはありません」
「なら、良いんだけど」
 少女は小さく笑う。

「では、失礼します」
 陸遜は慇懃に一礼する。
「もう、行くの?」
「はい」
 少年はうなずく。
 あたりはすでに夜の気配が立ち込めている。
 これ以上、いてはいけない。
 何を口走るか。
 自分が一番、わかっている。
「話し相手になってくれても良いじゃない」
 尚香はつまらなそうに唇をとがらせる。
 太陽が輝く時間なら、上手くかわせただろう。
 だが、昼ではない。
 少女は少年の袖をつかんで、引きとめようとする。
 それを陸遜は振り払った。
 緑の瞳をさらに大きくして、尚香は幼友達を見る。

 何かが弾けとんだ。
 それは理性と言う名のたがだったのかもしれない。

「あなたにはわからない。
 私の気持ちなど、爪一欠けですらわからない!」

 陸遜は叫んだ。
 一つ年上の少女の無邪気すぎる振る舞いに、もう我慢ができない。
 自分ひとりが空回りをしている。
「当たり前じゃない。
 私は陸遜ではないもの」
 尚香は陸遜の気持ちも知らずに、平然と言う。
 わかりきっていた未来だというのに、心が痛む。
 彼女にとって、自分は幼友達にしかすぎない。
 それ以下でも、それ以上でもない。
「姫らしいですね」
 陸遜はやっとのことで言葉を紡いだ。
「褒めてくれて、ありがとう」

「夜ごと、もう一人の、私がささやくのです」
 激情を抑えようと、陸遜は声を落とす。
 いっそ狂ってしまったほうが、楽だろう。
 何度も考えた。
 この想いを捨てることができたなら、どれだけ楽になるか。
「正直になれ、と」
 なれないから、苦しかった。
 だからと言って、こんな状態を望んだわけじゃない。
 陸遜は自嘲する。

「今までのあなたは正直じゃなかったの?」
 緑の瞳がきょとんと見つめる。
「あいにくと」
「じゃあ、気がついて良かったわね。
 心を偽り続けるのって、大変だから」
「正直になっていいですか?」
「どうして、私に訊くの?」
 まっさらな問いかけに、陸遜は言葉が詰まる。
「陸遜。
 あなたは、いったいどうしたいの?」
 こんなとき、彼女のほうが歳上なのだと気づく。
「どうして、あなたは、そんなに真っ直ぐなのですか」
 陸遜は声を張り上げる。
 少女が綺麗であればあるほど……。
 その分、自分が穢れていることを思い知らされる。
「憎らしい?
 気がつかなかったわ、嫌われてるなんて」
 尚香は大きく息を吐き出す。

「違います……。
 好きすぎて、どうして良いのかわからないんです。
 自由なあなたが好きなのに、束縛したい。
 あなたの気持ちを無視して」
 陸遜は訴えた。
 少女にはたくさん大切なものがある。
 自分は片隅の、ちっぽけな一つにしかすぎない。
 そんなことはわかっている。
 たくさんの宝物を持っている彼女だからこそ、憧れて、好きになった。
 でも、その一つずつが憎らしかった。

「……私は鈍感だから、自信ないんだけど。
 愛の告白みたいに、聞こえるわよ」
「そのつもりです」
「予想外だわ」
 尚香は神妙な面持ちで言った。
 これが同情だったり、拒絶だったりしたなら、陸遜は途惑わなかった。
 あいも変わらず、規格外な少女に
「……本当に、こんなときまで……姫らしいですね」
 陸遜は苦笑した。
 もう、泣きたくなるほど、彼女は彼女だ。
 らしすぎて……脱力してしまった。
 あれこれと一人で考えすぎだったのだ。
 自分の悩みがひどく滑稽に思えた。
 それでも、百年の恋は醒めたりはしない。
 そんな彼女だから、好きなのだ。

「つまり、陸遜が私のことがすっごく好きってことを覚えておけば良いの?」
「そうですね。
 できたら、気持ちに答えていただけると嬉しいんですが……。
 それは高望みのような気がするので遠慮しておきます」
 穏やかな微笑みを浮かべて、少年は言った。
「陸遜って、変なところで遠慮深いのね」
「変ですか?」
「私の気持ちは訊かないの?」
 尚香は不思議そうに陸遜を見る。

「姫は私のことを、どう思っているんですか?」

「すっごく、好きよ」
 あっけらかんとした答えだった。
 どうしようもないくらいに、愛しい。
 ああ、もう。
 なんて、姫らしいんだろう。
 納得してしまう。
「抱きしめても良いですか?」
 陸遜は尋ねた。

「嫌よ。
 代わりに、私が抱きしめてあげる」


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