それでも、あなたは前を向くのですね


「私は怒っています」

 弓腰姫の天幕に入るやいなや、此度の指揮官は言った。
 彼は珍しいことに、怒っていた。
 柔和な微笑を年中貼りつけているので、青天の霹靂ぐらいには珍しい事態だった。

「ええ、知ってるわ。
 あなたの作戦、めちゃくちゃにしちゃったもの」
 尚香は、全く悪びれずに言った。
 悪戯がバレて怒られている子どものような笑顔を見せる。
「ええ、そうですね。
 ここは姫の遊び場ではありません!」
 陸遜は声を荒げた。
「でもね。
 これだけは、わかってちょうだい。
 誰にも死んでほしくないの」
「くりかえしますが、ここは戦場です。
 ここに来る者は、みな死を覚悟しています。
 誰も死なない戦場なんてないんですよ」
 陸遜は尚香の目の前に座る。
「そうね」
 尚香はうなずく。
 少年のはしばみ色の瞳に迷いが浮かぶ。
 やがて、決意したように、膝の上の拳をぎゅっと握る。
 陸遜は大きく息を吸い込んでから、尚香を見た。
「このことをあなたに告げるのは酷ですが、このような振る舞いを見過ごすわけにはいきませんから、言わせていただきます」
 少年は言った。
 その声には常にはない淀みがあった。

「我が軍が勝つ、ということは、敵軍の兵士の家族にとっては大切な誰かを失ったのと同義なんです」

 後悔がにじむような声が告げる。
 陸遜は、尚香には言いたくなかった。
 少女が戦場に立つ理由を知っているから。

「知ってるわよ、そんなこと。
 言われなくたって」
 少年が考えていたよりも、ずっと朗らかな声が言う。
「私の作戦通りに動いてください」
「嫌よ」
「重大な命令違反は斬首といったところですが、殿の妹ですから刑を軽減します。
 次は赦しませんよ」
「もし、次にやったら?」
 軽い調子で尚香は尋ねる。
「命令の聴けないコマはいりません。
 私の指揮する軍に姫を入れないだけです」
「本当に怒ってるのね」
 尚香はためいき混じりに言った。
「常々、考えていたんです。
 どうすれば、あなたを戦場から追い出せるか。
 そればかりを」
「女は邪魔かしら?」
「はい。
 足手まといです」
 陸遜は断言した。
 少女の心が傷つくのをわかっていて、言葉を選ぶ。
 嫌がらせではない。
 これ以上、彼女が傷ついていほしくないから。
 二度としないように、きつい言葉を投げかける。
「はっきり言うのね」
「言わないとわかっていただけませんから」
「もう少し、上手くやるつもりだったのよ」
「結果がついてこなければ、どんな経過も芥ですよ」

「そうね。
 でも、自分の命よりも大切なものってあるでしょ?
 ある日突然、そんなものに気づかない?
 一命をかしても守りたいってもの」
「私にもありますが。
 同情を買おうとしても無駄ですよ。
 怒ってるんです」
「だから、命令違反をしたの。
 陸遜が指揮する次の戦に出られないのは残念だし、嫌だけど。
 違反したことは後悔してないわ」
「あなたらしいですね。
 後先見ずに行動して、その結果に後悔しない、だなんて」
「だって。
 あそこで命令違反をしなかったら」
 尚香は言葉を切る。


「あなた死んでいたでしょ。……陸遜」


「可能性はありましたね」
 陸遜は認めた。
 少女が命令違反をしなかったら、自分の死は免れなかっただろう。
 その可能性を含めて、今回の作戦を立案した。
 条件付とはいえ、反対をした者はいなかった。

 姫には知らせるな。という条件で、その策は許可された。

「ですが、これっきりにしてください」
 はしばみ色の瞳は泣きそうな色をたたえる。
 寝台の上の少女を見る。
 真っ白な包帯が巻かれたその姿を、見る。
「私の命よりも、陸遜の方が大切よ。
 兄さまのお役に立てるでしょ?」
 尚香はにっこりと笑う。


「あなたが孫呉の大地を愛するように、陸家の長ではない、陸遜ではない『私』はあなただけが大切なんです」


「指揮官失格ね」
「だから、あなたを戦場に立たせたくないんです。
 判断が鈍りますから」
 人生一代の大告白をあっさりとかわされて、少年は苦笑する。
「今度は上手くやるわよ」
「懲りてないんですか?」
「まだ、戦いは終わってないもの。
 終わるまではここにいるわ」
「こんなに怪我したのに……。
 少しぐらい立ち止まる気はないんですか?」
「それが私だから。
 立ち止まる気はないわよ!」
 尚香は明るく言ってのける。
「まあ、この怪我ではしばらく戦場に立てませんね」
 陸遜の言葉に、尚香は不満げな表情を浮かべる。
「きちんと休息してくださいね」
 そう言い残すと、陸遜は天幕から出た。


 絶望しない。
 後悔しない。
 真っ直ぐ未来を見続ける瞳。
 死の恐怖ですら跳ね除ける、強い魂。
 屈強な男ですら、怯むようなこの世界で。

「あなたは、それでも前を向くのですね」

 彼女の描く未来に自分がいることに安堵しながらも。
 それだけでは嫌だと少年は思う。
 彼のつぶやきは、血のように赤い空が吸い込んだ。
 堕ちていく太陽に、明日を重ねて、陸遜はかすかに笑みを浮かべた。


お題配布元:空が紅に染まるとき 真・三國無双TOPへ戻る