孫呉の中心、建業。
けして狭くはない呉公の私的な部屋。
そこから回廊へと、神経質な怒鳴り声は響いた。
道を行く女官たちは首をすくめ、高官たちは苦笑いをした。
何のことはない。
ただの兄妹ゲンカだ。
今では止める者もいない。
そのぐらい頻発に起こる、呆れ返るぐらいに馬鹿馬鹿しいケンカ。
当人たちはいたって、大真面目ではあったけれども。
「兄さまの嘘つき！！」
孫呉の末姫は、金切り声を上げる。
高く澄んだ声は、怒りのためにさらに高くなっていて、耳障りだった。
「何のことだ？」
そう言った声も多分に苛立ちが含まれていた。
「陸遜と仲良くしろって最初に言ったの兄さまじゃない！」
尚香は言った。
「それとこれとは別だ」
「どこが違うのよ！？」
「全然、違うだろうが……」
孫権はためいき混じりに言った。
碧眼が考え込むようにすがめられ、すぐに戻った。
「陸遜だけは駄目だ」
この孫呉の最高権力者は言った。
「どうして？」
ほんのりと紅で色づいた唇はへの字に曲がる。
「信頼ができない」
「あんなに頼りにしているのに？」
緑の瞳はいぶかしげに兄を見上げる。
「確かに、陸遜は臣下としては信頼ができる。
だが、尚香。
お前の夫には不適切だ」
「どういうこと？」
「……私は幸せになってほしいのだ」
歯切れ悪く、孫権は言った。
「ますます意味がわからないわよ」
「とにかく、駄目だ」
「納得できないわよ。
それに。
まだ……。
一方的に私が好きなだけで……。
陸遜が私のことを好きだとは限らないわ」
妙齢の乙女らしい逡巡を見せる。
「そんなもの見ればわかる。
知らぬは当人たちだけだ」
孫権はあきれたように言う。
「？」
「誰の目から見ても明らかだ。
陸遜は……癪に障るが、主君の私よりも、尚香のほうが好きなのだ。
いざとなったら、私よりも、お前を選ぶだろう。
殿なら自力で何とかなさると思ってましたから。
姫はか弱い女性ですからね。
などと笑顔で言うのだ」
簡単に予想ができるな。
ぶつくさと孫権は言った。
お気に入りの木陰。
膝の上に竹簡を広げているというのに、のんきに風景を見入っている少年に少女は言った。
「駆け落ちして」
「ご冗談を」
陸遜は尚香を見上げると、穏やかに言った。
突拍子もない姫のわがままに慣れている少年は、微笑んだ。
「みんなにはわかるらしいの。
陸遜は私のことが好きなんでしょ」
陸遜はお菓子が好きなんでしょ、と言うのと変わらない調子で尚香は尋ねる。
「はあ」
少年は言葉を濁した。
「私のこと嫌い？」
尚香はぺたりと陸遜の隣に座る。
「……なかなか良い策ですね。
そう訊かれて、否と答えられる男はいないでしょうね」
少年は笑みを絶やさず、どこか他人事のように言った。
「陸遜は私のことをどう思っているの？」
「好きですよ」
拍子抜けするほど簡単に、少年は答えた。
「じゃあ」
「論理の飛躍ですね。
なぜ、駆け落ちしなければならないんですか？」
陸遜は問う。
「兄さまに反対されたからよ」
「あ、そうなんですか」
「だから、駆け落ちして」
尚香はなおも言う。
二人の間の空気は、これから駆け落ちしなければならないような恋人同士のそれとは見えない。
家出の計画をする幼子のようにしか見えなかった。
それでも、本人たちは真剣である。
たとえ、片方に緊迫感が欠けていたとしても。
「大変魅力的なお誘いですが、お断り申し上げます」
陸遜は言った。
読み途中の竹簡を片付けはじめる。
「どうして？」
予想と違う展開に、少女はすねる。
「こう見えても、軍師です。
勝てる戦いでみすみす不戦敗したくはありません」
陸遜は立ち上がると、尚香の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「必ず、説得してみせますよ。
あなたのために」
そして少年は、満面の笑みを浮かべた。