一呼吸分


 文字が読みづらくなった。
 雲でも出たのだろうかと、陸遜は窓の外に視線を投げる。
 少年の視線の先にあったのは、薄暮。
 太陽は沈み、夜になる直前だった。
 つい、見事な夕景をうっとりと眺めてしまったが、陸遜はハッと正気に返る。
 ぼうっとしている場合ではなかった。

 部屋の片隅で竹簡と格闘している尚香に声をかける。
「姫様、そろそろ帰られたほうが」
「これ全部、読み終わったらね」
 竹簡を見入っている尚香から投げやりな返事が届く。
「全部ですか……」
 陸遜は少女の持っている竹簡の残りの量を見る。
 まだまだ、時間がかかりそうだった。
「貸すから、帰っていただけませんか?」
 少年は弱腰に提案する。
「迷惑?」
「そう言うわけではないんですが。
 もう、遅い時間ですから」
「平気よ。
 気にするの、陸遜ぐらいでしょ」
 尚香は言う。
 だから困ると言うのに、こちらの気も知らないで。
「送っていきます」
 陸遜は立ち上がった。
「仕方がないわね。
 これ、借りていくわよ」
 

 尚香が書を目当てに陸遜の部屋に入り浸るようになって、どれぐらい経っただろう。
 最近は慣れてしまったが、当初は落ち着かなかったものだ。
 何と言っても相手は妙齢の乙女。
 二人きりともなれば、いろいろなことを考えてしまう。
 今でも、時たま邪なことが脳裏を過ぎる。
 少女が書を目当てにやってきているのは、わかっているはずなのに期待してしまう。
 こうやって部屋まで送っていくのも、淡い期待があるからだった。
 少しでも長く、一緒にいたい。
 彼女の眼差しを独占したい。
 そう願う、自分がいた。

「あ、そうだ」
 自分の部屋に帰ろうとしていた陸遜に、尚香は竹簡を渡す。
「これ、ありがとう。
 借りっぱなしだったわ」
 以前貸したものだろう。
 見覚えがあった。
「はい、確かに」
「ありがとう」
 尚香はニコッと笑った。
 この笑顔に弱いのだ。
 ついつい、甘やかしてしまう。
 陸遜は心の中で、盛大にためいきをついた。


 部屋に戻って、陸遜は帰ってきた竹簡を書卓の上に開く。
 兵法の応用が書いてある書だ。
 こんなものを好むのは、孫呉の姫だからだろうか、と陸遜は微苦笑する。
 ふいに少年の手が止まる。
 文字の書きつけてある絹布が出てきたのだ。
 ……手紙だろうか。
 すべらかなそれをふわりと広げる。
 絹布には、墨色も美しく流麗な文字が並んでいた。
 切々と歌い上げられるこれは、恋文。
 その蹟に見覚えがあった。
 間違いようがない。
 周瑜のものだった。
 少年の顔から表情と言うものが一切滑り落ちる。
 あるのは不気味なほど鎮静した無表情。

 どうしてこんなものがここから……。
 考えられるのは、ひとつ。

 黒々とした感情が吹き上げてくるのがわかった。
 この絹をずたぼろに切り裂いたら、さぞや良い音がするだろう。
 これほど良い手ざわりなのだ。
 文字が見えなくなるほど細かく切り刻んだら、すっきりするだろう。

 しかし、理性がそれに歯止めをかける。
 感情のままに振舞うことは愚かだと、身につきすぎていた。
 気がついたら、絹布を元のように折りたたみ尚香の部屋に向かっていた。
 もちろん、持ち主に返すためである。
 物分りの良すぎる自分に嫌気が差しながらも、表面上は取り繕ってしまう。
 それが、陸遜「らしさ」だった。



「姫様、これは姫様の物でありませんか?」
 ニコニコ笑顔で、陸遜は絹布を差し出した。
「あら?
 どこにあったの?
 ずっと、探していたのよ。
 失くしちゃったんじゃないかと思って」
 尚香はにこやかに言った。
 肩越しに見える部屋は引っ掻き回した形跡が残っていた。
 本当に困って、探していたのだろう。
 それほど、大切な物なのだ。
「竹簡に挟まっていました」
 陸遜は穏やかに言った。
 作り笑いをするつもりはないのだが、自然に笑い顔になる。
 顔に仮面が張りついているのだろう。
「ありがとう陸遜。
 助かったわ」
 尚香は笑顔で絹布を受け取った。

「どうして、周瑜殿なんですか?」

 陸遜は失言に後悔した。
 言ってしまったことはなかったことにはできない。
「え?
 あ、これ?
 周瑜の字が綺麗だからよ。
 策兄様は問題外だし、権兄様は絶対に貸してくれないから」
 少女は陸遜の言葉の意味に気がつかず、答える。
「はい?」
 はしばみ色の瞳は驚きで瞬く回数が増える。
「手本に借りたのよ。
 小喬に渡すはずの詩だったらしいんだけど、無理を言って借りてきたの」
「だったら、私に言ってくだされば」
「あら、陸遜。
 あなたは恋文を書いたことがあるの?」
 大きな緑の瞳が陸遜をとらえる。
「え、はい、あ……ないです」
「意味がないじゃない」
 少女はすぱっと言い切った。
「どなたかに恋文を差し上げるのですか?」
 尚香の言うことはもっともだったが、陸遜には納得したくない事柄だった。
「そうしようと思ったけど。
 うーん、やっぱりやめるわ。
 こういうのは性に合わないもの」
 少女は大げさに肩をすくめた。
「そうですか」
 陸遜は、ほっとした。
 まだ、少女は誰かのものにはならないのだ。

「直接、言ったほうが早いでしょ」
「え!?」
 予想もしなかった展開に、陸遜の声はひっくり返る。

「大好きよ、陸遜」
 尚香はこれ以上ないくらい綺麗な笑顔で告げた。
 一呼吸分。
 大きく息を吸って、吐く間ほどの時間。
 自分に向けられた言葉だと、理解するのに必要だった。
「は、はい!」
 陸遜は赤面した。


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