ガシャンッ!
派手な物音が廊下まで響いてきた。
陸遜は近い未来を考えて、ためいきをかみ殺した。
その間も部屋からの物音は途切れることはない。
君子危うきに近寄らずとは言うものの、陸遜は部屋に入った。
「失礼します」
陸遜は軽く頭を下げ、微笑んだ。
「何の用よ!」
澄んだ声が鋭く問う。
強い意志が浮かぶ緑の瞳は、少年をねめつける。
「お茶をお持ちしました」
陸遜は茶器の載った盆を示す。
「誰もそんなこと訊いてないわよ!」
尚香は怒鳴る。
陸遜は室内に散乱する物たちを避け、盆を卓の上に置いた。
決して狭いとは言えない空間は、本来の用途を果たせなくなった物であふれかえっていた。
花瓶は叩き割られ、生けてあった花は踏みにじられ、床には水たまりができている。
横転している椅子に、破られた絹。
人に当たらないだけマシな、典型的な八つ当たりの光景が広がっていた。
「先ほど、侍女の方に頼まれたんです」
「あらそう。
ずいぶんとお暇なことで」
少女は人を小ばかにしたような笑みを浮かべる。
「暇ではありませんよ。
皆さん、体よくこき使ってくれるんで。
断るのが下手なんですよね」
陸遜はおっとりと言う。
「用がすんだなら帰れば!?」
怒りで顔を真っ赤にして尚香は言う。
「いえ、こちらは頼まれたので」
陸遜は茶器を取ると、尚香の前に差し出した。
「用は別にあるんです」
「何しに来たの?」
「出立の前に、姫にご挨拶に参りました」
「……残酷ね」
大きな緑の瞳が陸遜を見据える。
「そう言われると傷つくのですが」
「あなたにも人並みの精神があったの?
知らなかったわ」
「ちゃんと覚えておいてくださいね」
「すぐに忘れるわ。
私は忘れっぽいから」
「でしたら、今回の件もすぐに忘れていただけると嬉しいのですが」
「無理よ。
私は戦いに行きたいの!
どうして、駄目なの!?
私が女だから?
その辺の男よりも、腕に覚えがあるわ!」
尚武の国の姫は叫んだ。
「危険ですから」
陸遜は微笑み、尚香の手に茶器を握らせる。
緑の瞳はカッと見開かれる。
「馬鹿にしないでよっ!」
言葉と共に、茶を引っかけられる。
あえて陸遜は避けなかったので、思い切り顔面に生ぬるいお茶がかかった。
季節が夏で良かったと、陸遜は思った。
これが冬だったら、笑い事ではすまない。
陸遜は袖で顔を拭う。
「無理に戦に出る必要はないと思います。
あなたは女性なのですから」
「嫌なのよ!
待っているのは。
だって、……帰ってくるとは……限らないじゃない。
だったら、一緒について行った方がマシよ」
潤んだ緑の瞳が陸遜を見つめた。
彼女が何を恐れているか、知っている。
身近な人間を失うことを極端に恐れているのだ。
戦で肉親を喪ったのだから、無理のないことなのかもしれない。
「できません。
これは決定したことなんです」
「どうして?」
震えた声が問う。
「その方が効率的だからです」
陸遜は断言した。
信じられないものを見るように、尚香は陸遜を見た。
現実を拒否するように、尚香は小刻みに首を横に振る。
「戦場は遊び場ではありません。
ご理解いただけましたか?」
陸遜は微笑んだ。
尚香の手から茶器が滑り落ちる。
カシャン
陶器製のそれは床に落ちて、砕けた。
「で……出て、行って……。
用は、す……んだんでしょ……?
出て行ってよ!!」
悲鳴のような声で尚香は言った。
すべらかな頬を大粒の涙が伝う。
「はい、失礼いたします」
陸遜は拱手して、部屋を出た。
追い討ちをかけるように、その背にすすり泣く声が投げつけられる。
少年は微笑を浮かべたまま、部屋から足早に遠ざかる。
誰もいない廊下でようやく立ち止まる。
磨き上げられた床だけが、少年の表情を見ていた。
泣き出す直前のような複雑な表情がそこには映し出されていた。
「あなたがこの国を守ろうとしているように。
私もあなたを守りたいんです。
それがどんな手段であっても」
ポツリと少年はつぶやいた。