「今日は静かね」
窓際でポツリと、あの人は言った。
その声も雨音に吸い込まれてしまいそうなほどに、小さかった。
「そうですね」
少年は微笑んだ。
「こんな雨の日は」
そう言ったきり、あの人は口をつぐんでしまった。
森の緑を写し取ったような瞳は、雨に濡れた春を見つめていた。
いったい、どういうつもりなのか。
孫家の姫様は、陸遜の執務室で外を眺めていた。
ふらりとやってきて、そこにいついてしまった。
陸遜が所用で部屋を空けても、ずっとそこにいた。
窓際に置いた椅子が、彼女の特等席。
「こんな雨の日は?」
鸚鵡返しに陸遜は尋ねた。
「あなたは、雨が好き?」
尚香は訊いた。
「嫌いだと言うほど、嫌いではありませんよ。
だからと言って、好きではありませんけど」
陸遜は苦笑した。
「春は雨が多いわね」
「姫は、雨がお好きなのですか?」
陸遜は書き上げた竹簡を端から巻いていく。
静かな室内で、竹の音が響く。
「好きじゃないわ。
でも、不思議ね。
春の雨は嫌いになれないの」
その声は、微かに笑っていた。
「どうしてですか?」
陸遜は立ち上がり、尚香の隣に立つ。
玉のような瞳が少年を見上げた。
普段の激しさは沈静して、凪いだ色の瞳は、それでも彼女らしく真っ直ぐと彼を射抜く。
「質問ばかりね」
「あなたのことをよく知りたいからです」
少年は少女を見つめ返した。
「光栄ね」
尚香はニコッと笑った。
「それで、答えを聞かせてもらえませんか?」
「答え?」
「二つとも」
「春の雨は音がしないわ。
いつの間に振り出して、いつの間にか止んでいて。
細く糸のような雨はキレイでしょ。
だから、嫌いになれないの。
こんな雨の日は、昔話がふさわしいと思わない?」
尚香の視線は、窓の外に向かう。
「昔話ですか?」
「ええ、昔を懐かしむのにぴったりでしょ?
たとえば、あなたがあなたになる前……とか」
少女は意味深な微笑を浮かべる。
「?」
「これでも労わっているつもりなのよ。
お疲れさま、陸大都督殿」
「陸遜とお呼びください、姫」
少年は口癖を言った。
「そう言うところが大好きよ、陸遜」
尚香は振り仰ぎ、満面の笑みを見せた。
雨の陰鬱な空気を一掃するほど、華やかな笑顔だった。