「ご苦労様です」
上等な青紫の長袍をまとった痩躯の男が、慇懃に頭を垂れる。
それを感慨もなく見ていた青年は、ふと思ったことを口にした。
「一つ不思議なことがあった」
くだらない戦いであった。
人の心というのはたやすく移ろうものだ。
それが許せないと思うのは、まだ「人間」であるということか。
「はぁ」
「あの中にお前がいなかった」
青い焔色の双眸が臣下を見据えた。
「いてもおかしくはない。
違うか?」
曹丕の問いに、司馬懿はかすかに肩を揺らした。
ゆったりと上げられた面は、作り物じみたそれ。
「利害がございません。
勝つ戦以外には食指が動かされぬもの」
人の影を集めたような深い色の瞳が笑う。
「ほお」
どこまでが実で、どこまでが虚か。
わからぬような言葉に、曹丕はうなずいてみせる。
「それに蜀に降るつもりはございません」
気位の高い男は断言した。
「仲達は、諸葛亮が苦手であったな」
「味方になったこともない人物です。
好くような理由はございません。
あれは、我が曹魏の取り除かなければならない障害です」
司馬懿はとうとうと言う。
「そういうことにしておこう」
青年は口元に笑みをはく。
痩躯の男は軽く頭を下げて、曹丕の視線から逃れる。
「……、そう言えば、お前は誰に仕えている?」
「この大地の王に」
それが違わぬ答えであろう。
曹魏にも、己にも仕えていない。
「愚問であったな。
忘れろ」
曹丕は言った。
「御意」
司馬懿は、よりいっそう深く頭を垂れた。
この身はすでに、この大地の王である。
王であり続ける限り、この男は裏切らぬ。
正しく敷かれた道を走っていれば良い。
これほど、明確な答えはあるだろうか。
道を踏み外したときが、少々厄介ではあるな。
敵に回すと面倒だ。
退屈を紛らわすのには、いささか刺激が強すぎる。
曹丕は瞳を伏せて、未来の不穏を愉しんだ。