雨の降る日が好きだった。
大地を潤わせ、木々の緑を鮮やかにする慈雨の降る頃。
魏の帝王は静かに瞳を伏せる。
回廊の途中に設けられた東屋の、石卓に肘をついて。
聴政殿から後宮に向かう途中の道であるから、下官はいない。
ただ一人、濡れる院子を堪能していた。
どれほどの時間がすぎただろうか。
衣がくったりと重くなる程度にはいただろうか。
曹丕は、その東屋のためだけにあつらえた石像のように、そこにいた。
微動だにしないその姿は、戦場を駆ける姿とも、政務を執る姿とも違った。
ただただ、静かだった。
シャランシャランと玉が打ち合う音を聞く。
玉佩の音だ。
その佳人は、大輪の牡丹もかくや、という花のかんばせに違いない。
曹丕は確信して、瞳を開けた。
「我が君?
こちらにいらっしゃったのですね」
甄姫の唇から、ためいきが零れる。
安堵のものではないと言うことは、曹丕には良くわかった。
「探したのか?」
青年は口元だけに笑みを浮かべる。
「ええ、皆が」
雨の鬱屈とした空気を一掃するほど、明るい美貌の佳人は微笑む。
そこだけは陽光が差しているような気がした。
真に美しいものは、自分自身が輝いている。
それが曹丕の持論だった。
「甄は探してくれなかったのか?」
半ば思いつきで、曹丕は尋ねる。
「探して欲しかったのですか?」
予想通りの答えが返ってきた。
たとえ、探していたのだとしても妻がそう答えることぐらい、青年にもわかっていた。
それでも訊いたのは、何故なのだろうか。
人の心というのは、不可解だった。
己のものほどよく見えない。
甄姫は空いている椅子に腰を下ろす。
「何となく、だ。
そんなことがあっても良い、と思ったのだ」
期待はしていない、と曹丕はささやくように言う。
妻の視線から逃れるように、曹丕は視線を院子に投げる。
天帝の孫娘が織る糸が、地上の雨だと言う。
あながち嘘ではない、とうなずかせるような雨が降る。
細く細く、途切れそうなほど弱く、雨が宙を彩る。
気詰まりな沈黙に天さえ気を遣うのか、雨がやむ気配は一向になかった。
「私は、我が君を探したりはしませんわ」
天帝も羨む極上の弦楽器の声が言う。
「こちらにいらっしゃるとわかっていましたもの」
甄姫はコロコロと笑う。
曹丕は妻を見遣る。
「雨が降ると、いつもこちらにいらっしゃるでしょう?」
「そんなにいるだろうか?」
「ええ。必ず」
甄姫は自信たっぷりに言い切った。
曹丕は己の記憶をたどる。
必ずとくくられるほど、ここにはいない。
「こんな風に静かな雨が降る日。
いつも聴いていらっしゃるでしょう?
大司楽(宮廷楽士の長)殿もお気の毒ですわね」
「?」
「流石に天帝がくださる音楽には敵いませんわ」
甄姫は楽しげに笑う。
「……そうだな」
青年はうなずいた。
曹丕は雨の降る日が好きだった。
強く降る雨ではなく、やわやわと降る雨が好きだった。
葉に当たり、水たまりに跳ね、雨音は無限に変化する。
どんな技巧を凝らした楽であっても、敵わない極上の楽。
その音を聴いているのが好きだった。