春を恨む


 それは良くある平和な一日。
 庭院の桃の花が薄紅色の花弁をふわりと広げ、霞みがかった空を覆い隠そうとする。
 金の陽光が柔らかに辺りを染め、まさに春爛漫。
 瀟洒な東屋の石卓に、麗しい女人がいた。
 結い上げられた髪には金の歩揺も綺羅らかに、絢爛な縫い取りの上衣、裳裾は空を写し取ったかのような青、耳墜は瑠璃。細い手首を飾るのは数多の金の環。
 贅を凝らした衣裳に劣らぬ、華やかな貌。
 後宮の佳人三千と取り替えても惜しくないと思わせるほどの美女だった。
 この女人がいるのは、曹魏の城。
 いと尊き皇帝の庭ではないのだ。
 それは運命であり、同時に彼女自身が選んだものだった。


 甄姫が麗らかな春の昼下がりを楽しんでいたときのこと。
 戦場に身を置くため、血を好む羅刹と勘違いされることも多いが、その性格は温厚で情緒的である。
「春愁、春の暮れを一人見送る。
 朗(あなた)はいずこにおいでか、と。
 昨年、見上げた桃を
 今年は独り……」
 庭先で遊ぶ鶯もおしゃべりをやめるような、艶やかな声が詠う。
 甄姫が美しい響きの言葉を好き勝手に並べていると

「しみじみとした詩だが、虚構だな」

 大きいわけではないのに良く通る声がそれを遮った。
「少しぐらい、つくりごとを混ぜないと詩になりませんわ」
 振り返らずに甄姫は言う。
 紅の刷かれた唇から白い歯がこぼれた。
「その詩は、別離を恨む詩だ」
 石卓の上につかれた手は、男性のものとしては華奢だと甄姫は思った。
 どれだけ血を浴びようとも、その白さは変わらない。
 汚濁にまみれようとも、その冷たいまでの精神は変容しない。
 まるで溶けない氷のようだ。
 拒絶に近い、孤高。
「春ですもの」
 甄姫は曹丕を見上げた。
 不機嫌な顔をした青年がいた。
 かすかに眉をひそめる、そのクセをきっと知らないのだろう。
「……」
 曹丕は甄姫の隣に腰掛けた。
「不満か?」
 普段の不遜な物言いとは打って変わった問いかけに、女人は苦笑する。
 決まりきった答えが返ってくる。
 それぐらいのことはわかっているだろうに。
 それとも……そんな単純なことも見えなくなってしまうのだろうか。
 恋が青年に目隠しをしてくれるなら、これほど嬉しいことはない。

「ほんの少しだけ」
 甄姫は言った。
 そう言えば、相手が困ることはわかっている。
 けれども、そうやって迷惑を掛け合うのが恋というものだろう。
 甄姫はこの先も、己の心を曲げるつもりはない。
「そうか」
 案の定、曹丕はそう言ってうつむいた。
 次の言葉を捜しているのだろう。
 自分の発言の重さを自覚しているから、青年は言葉を選ぶ。
 他人の何倍も、心の中で吟味してから言葉を紡ぐのだ。
 そのため発する言葉は、無駄がなく、冷たい印象がする。
 他者を不用意に傷つけないように、心配りがなされていると言うのに、皮肉な結果だった。
「できるだけ……。
 早く、帰ってきてくださいませ。
 叡と一緒に待っていますわ」
 甄姫は言った。
「当然だ。
 戦が長引けば、それだけ損害が増える」
 曹丕は言った。
 本当に不器用な人だ、と甄姫は思う。
 生まれながらの『丕(天子の器)』なのだ。
 己のことよりも、人民のことのほうが何倍も関心が深い。

「我が君は、本当にお優しいんですのね」
 甄姫は寂しげに微笑んだ。
 不思議な色の瞳を独占している女は、間違いなく己だろう。
 だがこの瞳がもっとも見つめているのは、民草の未来……あるいは、幸福といった目には映らないもの。
 同じものを目に映したいと願い、戦場にも立った。
 誰よりも傍にいて、その孤独な道の見つめる先を見たかった。
 けれども……。
 こうして足止めされると、女である自分が恨めしい。
 男であれば、共にどこまでもついていけるのに。
 そう考えるほどに、甄姫は女らしい性格をしていた。
 妻である前に、母である前に、女であった。

「留守を任せるのは、信頼しているからだ」
 曹丕は言った。
「では。
 夜離れを恨む詩をたくさん作って待っておりますわ」
 甄姫は艶やかな笑みを浮かべた。
 己の想いを隠すつもりはない。
 飾らない笑顔で甄姫は曹丕を見た。
 青年はかすかにうつむいた。


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