音楽というのは、たちが悪い。
耳に入ってくる。
しかも、何の断りもなく、心の中まで染め上げていってしまう。
途切れ途切れに、もの悲しい楽の音が曹丕の元まで届く。
心に直接、訴える低音。
まるで地を這うような重たい音は、余韻たっぷりに響く。
一つの音が消える前に、また音が重なり、複雑な波紋を描く。
今宵の空色、風の香りを切り取ろうとでもするのか。
深く暗い「青」のような音だった。
思郷歌だろうか。
故郷を懐かしむ歌は、どこでも同じ匂いがする。
帰りたい、帰りたいと、くりかえす。
帰れない、帰れないと、くりかえす。
帰りたくても、帰れないと、嘆き悲しむ。
何度でも、何度でも。
さざなみのように。
寄せては返す。
戦場であれば、その歌声は多い。
曹丕の天幕まで、それは聞こえる。
「歌か」
青年はつぶやいた。
傍らにいた佳人が立ち上がる。
気を利かせて、楽をやめさせようとしたのだろう。
「よい」
曹丕は短く制す。
甄姫は意外そうに青年を見つめる。
「心の中までは、命令できぬ」
曹丕は言った。
「よろしいんですの?」
甄姫は座りなおす。
「嫌いではない。
理解はできぬがな」
青年は口元にかすかに笑みを浮かべる。
燈燭を受けた飴色の瞳は、やわらかに曹丕を包む。
「帰りたい、と思うところなどない。
甄よ、そなたにはそのような場所が存在するのか?」
「ええ」
傾国の佳人は、珠のように煌々しく微笑んだ。
「そうか」
青年はうなずいた。
帰る場所がある、と言える者が羨ましいと思った。
帰りたい、と願うような居心地の良い場所は、記憶の中にもない。
思わず訴えるほどに、歌にするほどに、声にするほどに。
強烈に想う場所などなかった。
それが寂しかった。
自分ひとりだけが置いてきぼりになったように、辛いと感じる。
天幕の外、思郷歌は大きくなっていく。
帰りたい、帰りたい、と幼子のように一心に願う。
その声が「青」色に響く。
曹丕は目を閉じた。
歌と楽の音が心の中に染み渡る。
「私の帰りたい場所は、ここですわ」
あたたかな声がそっと言った。
まるで宝物のように、大切にささやく。
曹丕は己が妻をまじまじと見た。
甄姫は莞爾として笑う。
「……そうか」
青年はうなずいた。
故郷がないと嘆くなら、つくれば良い。
これが己の故郷だ、と誇れるような居心地の良い場所を見つければ良い。
単純なことだった。
※莞爾(かんじ)=にっこりと笑う
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