月の光も穏やかなしみじみとした夜だった。
欠けた月は夜毎に細くなり、やがて闇に消えていくだろうか。
細い銀の月は、天帝の末の姫君の櫛だと言う。
満月とは異なる風情に、ああ納得と首肯してしまうほど静かな夜だった。
それが舞い込んできたのは。
この洛陽で知らぬ者がいないほど、有名で信憑性のある流説。
魏皇后の私室に、人目を包むように届く書簡。
侍女すら気づかぬ鮮やかな手並みで、螺鈿の桃の花が咲き零れる卓の上に、それは密やかに届けられた。
月光のようにそっと忍び込んだ絹布には恋の歌。
墨色も鮮やかに堂々とした蹟。
明月皎皎照我牀
星漢西流夜未央
牽牛織女遥相望
爾獨何辜限河梁
明月の光がこうこうとわたしの寝台を照らし
天の河も西に傾いたがまだ夜は明けない
牽牛と織女は天の河をへだてて向いあっている
どんな罪があってあのように河でへだてられているのだろうか
その末尾には書名はなく、代わりに『ご存知より』と記されていた。
枯葉のような墨の香りと絹布に染め焚かれた香りが和音を奏でている。
甄姫は幸せそうに微笑む。
この秘密の手紙が届く時、傾国と名高い美貌の皇后は最も輝く。
見る人を蕩けさせるような極上の笑みを零すのだ。
「甄姫様、こちらは」
歳若い侍女が絹布にふれようとした。
「さわらないで!」
甄姫は侍女の手を引っ叩く。
それからハッと気がつき、微笑みを浮かべる。
「ごめんなさい。
これは大切なものだから」
甄姫は絹布を丁寧にたたみ、侍女の手から遠ざける。
「曹植様からですか?」
「いいえ」
甄姫は首を横に振った。
誰もがそう勘ぐる。
実際に詩人の曹植から、上出来な漢詩を献上されたこともある。
あながち根も葉もない噂ではなかった。
「では、どなたから……」
「あなたは、もうお退がりなさい。
あとは自分でできますから」
甄姫は毅然と言い放った。
「は、はい。
失礼しました」
不躾な侍女はまろぶように退がった。
甄姫は、絹布を見遣る。
大切な大切な手紙だ。
他の女にはさわらせたくない。
これは私だけのものだから。
甄姫の思考を遮るように、重厚な香りが打ち沈むように広がる。
「珍しいこともあるものだ。
そなたの声が回廊まで聞こえてきたぞ」
部屋に入った来た男の声は、上機嫌だった。
この魏の皇帝であり、甄姫の夫でもある曹丕。
「それは失礼いたしましたわ」
「いや、普段見ない一面というのも面白い」
曹丕は口の端をゆがめるように笑う。
そうすることによって、優しい顔立ちに甘さがなくなる。
獰猛な鳥のように鋭い眼差し。
それが装っているだけだと、甄姫は気がついていたが、見て見ぬ振りをしていた。
夫が弱さをさらけ出したくない、と言うなら妻は気がつかぬほうが良い。
「それで何が原因だ?」
青年は甄姫の体を包み込むように抱く。
華奢に見えるぐらい細い体でもやはり武人。
衣越しに伝わってくるばねのようにしなやかな身体。
「さあ?
何のことだったか……。
忘れ去ってしまいましたわ」
甄姫は帝王の背に腕を回す。
「口を閉ざすか。
それもまた答えだな」
曹丕は妻のあごをとらえて己の方を向かせる。
長い指先が甄姫の首筋を強く押し当てるようになぞる。
まろやかな曲線を描く肩まで指先は侵入して、衣を払う。
甄姫の肩が夜風にさらされる。
ぬくもりが奪われて、身を強張らせた甄姫の首筋に曹丕は唇を押しつけた。
甄姫はうっとりと瞳を閉じた。
握り締めていた絹布がはらりと床に落ちる。
「本当に口が堅いな」
吐息混じりの皮肉るような声が耳朶を打つ。
「我が君には敵いませんわ。
いつも署名をしてくださらないから、隠すのも大変なのですよ」
甄姫は夫を見つめた。
青年の色素の薄い瞳がかすかに和む。
「そなたがわかっているのだ。
問題はなかろう」
ささやきながら、甄姫の帯を緩める。
「まるで秘密の情事を重ねているようですわ」
「ふっ。
誤解する者にはさせておけばいい」
悪戯っ子のようなことを曹丕は堂々と言った。
「まあ」
甄姫は呆れるが、すぐに笑いに変わる。
やがて、二人はもつれるように寝台に入った。
織姫の櫛が静かに輝く夜のこと。
二人だけの密か事。
※作中の漢詩は、曹丕「燕歌行」より引用。
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