高揚する気分に、疲労感が残る体が引きずられていく。
勝つとわかっている戦であっても、勝利したばかりの時は気分が良い。
眠りにつくまでの短い時間であるが、子桓にとってそれは快い感情だった。
朝日が昇れば、定めのように無感動な自分に戻っている。
それを知っているからこそ、戦に勝利した夜は酒をたしなむことにしている。
忘れ難い高揚感を長く味わうために。
玻璃の杯に並々と注がれた赤黒い液体を、燈燭に透かしてみる。
透明な玻璃の杯の中、葡萄酒は波打ちながら鈍く輝く。
子桓はその光に満足げに微笑む。
「今宵はずいぶんと、ご機嫌なのですのね」
しっとりとした艶のある声が、年若い男の耳元に降る。
透き通るような白い腕が子桓の首に絡みつき、馨しい花の香りが鼻腔をくすぐった。
子桓は妻を見る。
柔らかな微笑を浮かべた女は子桓の隣に腰を降ろした。
甄姫は戦いが終わり、すでに衣を改めていた。
ここが戦場だと忘れ去る、居城で見るのと大差ない華やかな姿である。
ふわりと裳裾が舞い、その襞を燈燭がなまめかしい陰影をつくる。
花の香りが鮮やかに自己主張する。
「そなたも飲むか?」
子桓は杯を示した。
「いいえ、十分に頂きました」
「異なことを」
「我が君と言う美酒の前では、どんなものでも敵いませんわ」
甄姫はクスクスと笑う。
青年は形ばかりの賞賛に、杯をあおる。
見てくれに反して、甄姫は実に良妻であった。
慎ましやかで、淑やかで、酒をたしなむと言うこともない。
その内と外で両極端な様が子桓を飽きさせない。
むしろ支配欲をそそり、独占欲を満たす。
ふと子桓は悪戯心を起こして、妻の簪を一本引き抜く。
凝ったつくりの髪型はそれだけで崩れる。
「呉と蜀の同盟もこのように、たやすく崩れるのだろうな」
表面上、整っているものほど崩れた時の衝撃は激しい。
「まあ」
甄姫は目を大きくする。
子桓は気にせずに、さらに精緻な金細工をその髪から一つずつ抜いていく。
濡れるような光沢を持つ髪はサラサラと零れていく。
「戦を仕掛けるんですの?」
甄姫は尋ねた。
戦うことに、いや正しくは『生きる』ことに積極的な女だ。
その瞳は薄暗闇の中、鋭く輝いていた。
「それも良いが」
子桓はしっとりとした手ざわりの髪を梳く。
癖のない流れるような髪は、極上の絹にも勝る。
長い髪を端から端まで手で梳くと、えも言われぬ陶酔を感じる。
美酒を口にするよりも、こうして妻の髪を梳く方が強い満足感があった。
「足並みが乱れる様、高みの見物をする方が長く愉しめそうだ」
子桓は薄く笑った。
「では戦いませんの?」
「内から崩壊していくのは、さぞや見ものだろう。
それぞれに人を配しよう」
最も信じていたものに裏切られた時ほど、面白いものはないだろう。
時間をかけて綿密に策を弄する。
支配者にしか許されない遊戯だった。
確実に起こる未来に子桓は昏い微笑を浮かべた。
空になった玻璃の杯越しに見る光は、実に頼りなかった。