炎上


 季節は、冬。
 その地は『赤壁』と呼ばれる。
 船に揺れを抑えるために、鎖につながれた船団。
 数の上では圧倒しているが、それは諸刃だった。
 天下統一まで、あと一歩。
 夢が叶う直前は隙が多くのなるもの。
 見果てぬ夢に、酔ったこちらが負けだった。
 


「この戦は、負けだな」
 姓は曹、名は丕、字は子桓。
 曹操の跡取りと目される青年はつぶやいた。
 そのつぶやきは、海鳴りと季節外れの風でかき消された。




 子桓がそれに気がついた頃には、もう手遅れだった。
 凍てついた星が煌く夜空を覆い隠そうとする黒煙。
 子桓は瞬時に理解した。
 敵兵の手によって、火の手がかかった。
 息も絶え絶えに、伝令が飛ぶ。

「伝令。
 我が軍の船に火がつきました。
 敵将・黄蓋の降伏は虚偽。
 呉軍が迫ってきております」
 伝令の言葉に、兵に動揺が走る。


 予想よりも早かった。
 己の才に過信していた証左だ。
 定められた未来をひっくり返すのは、難しい。 


 逃げ惑う人の群れ。
 そこに、結束はない。
 誰もが自分の命が惜しい。
 ましてや此度の戦、まつろわぬ者が多数いたのだ。
 こうなることは、少し考えて見ればわかること。
 炎に恐れる馬を乗り捨て、子桓は走り出した。

「危険です。
 お逃げください!」
 副官が止める。
 なかなかの忠義者だった。
 次があるならば、また配下に加えよう、と子桓は思った。
「甄を迎えにいく」
「後で合流なさればよろしいでしょう。
 それよりも早く、殿と共に」
「父ならば、ご自分で何とかされるだろう。
 乱世の奸雄なのだからな」
 自分でまいた種だ、存分に味わうが良い。
 子桓は冷笑した。
 それよりも……。
 今さらながら、自分の下した命令に後悔した。
 最前線にいるであろう妻の身を案じた。
 子桓は燃え上がる船に向かった。



 完全な失策だ。
 目の当たりにするのは、辛かった。
 が、自分の犯した罪は自分で償わなければならない。
「我が君!?」
 煙の中、甄姫はいた。
 生きていたことに安堵するものの、その傷の深さに驚く。
 玉のようにと喩えられる肌は、血にまみれ、肉がえぐられていた。
 多勢に無勢。
 いかに武芸に優れた者であっても、勢いに乗った呉を止めるのは難しい。
「どうしてこちらに!」
 悲鳴に近い叫び声。

 やはり、と子桓は確信した。
 妻は、最後までここに残るつもりだったのだろう。
 指示した場所よりも、甄姫は敵軍に近づいていた。
 多くの将が本陣に帰還していたのとは、正反対だった。
 子桓がここに来なければ、この麗しい佳人は失われていただろう。
 敵国との境の江が墓になっていた。

「負け戦決定だ。
 逃げるぞ」
「私は、敵を足止めいたしますわ。
 どうぞ」
 言葉をさらに紡ごうとする妻の腕を強引につかむ。
 気力のみで戦っていたことがわかる。
 抵抗なく甄姫の体は、子桓の腕に落ちた。
「私の天下を見てみたいのであろう?
 こんなところで朽ちてどうする。
 特等席を用意してやる意味がなくなる」
 子桓は言い、妻の体を担ぎ上げた。
「我が君!?」
「どうせ、走る余力もなかろう。
 ずいぶんと軽い荷物だ。
 気にするな」
「はい」


 一昼夜後。
 魏軍は多くの兵を失い、逃げ延びた。
 散り散りになった将も集まり、ようやく軍団らしくなった。
 兵たちは疲労が色濃く残り、皆うつろな目をしていた。
 『負け戦』の響きが、魏軍に深い影を落としていた。
 子桓は上等な天幕をくぐる。
「申し訳ございません」
 軽い火傷と深い刀傷を負った甄姫は、床の中で言った。
 起き上がる体力もないのだ。
「私のせいで、我が君の髪が……」
「女ではあるまいし、気にしておらぬ」
「ですが」
「それよりも、そなたの方がひどい」
 子桓は枕元に座る。

 妻の髪にふれた。
 艶やかな髪は、ばっさりと切られている。
 炎に焼かれた部分を切った結果、その長さは以前の半分ほどになっていた。
 それでも、朱子のような手触りは変わらない。
「髪ならば、すぐ伸びます。
 それよりも、我が君のお役に立てないことが口惜しくございます」
 女とは思えない言葉が零れる。
 その気性嬉しく思うものの、味気ないと思うこともある。
「確かにその怪我では、将としては役に立たぬな」
 子桓は苦笑した。
「だが、そなたは得がたい将であると同時に、私の妻だ。
 久方ぶりに妻らしくしたらどうだ?」
 子桓は甄姫の手を取ると、唇を寄せた。
「着飾った甄が見たい。
 怪我が治るまで、大人しくしておれ」
「我が君のお心のままに」
 甄姫は微笑んだ。



 そして、甄姫の怪我が治るまでの間。
 一般の夫婦らしい時間を二人は過ごしたのだった。


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