不満


 時間が長い。
 ついたためいきで、おぼれちゃいそう。

 歳よりも幼いところがある少女は、そんなことを考える。
 一緒にいられない時間の分だけ、少女は青年を想う。
 護衛武将のころよりも、ずっと深く。
 婚約者という今の立場は、好きじゃない。
 言ったら、きっと不機嫌になるのがわかっているから、は黙っている。

 護衛武将だったら、ずっと一緒にいられたのに。
 戦場にだって、ついていける。
 司馬懿様の傍にいられる。

 未来の妻として、大切にされるよりも。
 憧れていたお金持ちのお嫁さんという立場よりも。
 一緒にいられる。
 その貴重さに、ようやく少女は気がついたのだ。
さん。
 何を考えていらっしゃいますの?」
「どうして、私はあの時、断らなかったんだろうって。
 だって、奥さんになるのイヤだって、言えば、ちょっとは未来が変わって……」
 ここまで言って、は気がつく。
 自分が声に出していることを。
 顔を上げ、正面に座っている璃にお願いをする。
「だ、ダメです!
 璃さん。
 これ、司馬懿様に言っちゃダメです!!」
「私は司馬家の侍女ですから」
 ニッコリと妙齢の女性は微笑む。
 自分の『世話係』兼『話相手』兼『行儀見習いの教師』が敵でも味方でもないことをは痛感していた。
「旦那様に尋ねられたら、どんな些細なことでもお答えするのも仕事です」
 刺繍をする手を止め、璃は言った。
「別に、司馬懿様のことが嫌いになったわけじゃないんです!
 ただ……。
 その。
 弾みっていうか、ちょっとした過去への仮定というか。
 想像してみただけなんです!」
 は必死に弁解をする。

 結婚したくないんじゃない。
 今の生活はきっと幸せなんだって、わかってる。
 明日の暮らしの心配をしなくても良いから。
 でも、司馬懿様は……きっと誤解をするから。
 知られたくないっ!

「でも、尋ねられないことまで、報告するのは面倒ですから。
 そんなことはいたしません」
 笑顔のまま、侍女は言った。
「あ……、はい。
 良かったです。
 本当に、司馬懿様のことが嫌いになったわけじゃないんです」
 少女はほっとした。
「では嫌いになったのは、司馬家の妻になるということですか?」
「えっ……?」
「旦那様と違って、あまり乗り気ではないようですから」
 と言って璃は、の手元を指した。
 花嫁がやらなきゃいけないリストでも、かなり上位にランクインしている刺繍の真っ最中の布が、少女の膝を上にあった。
 本来ならば、おめでたい柄を選ぶところから、一人でやらなければならないのだが、あいにくとそんな時間とセンスは、にはなかった。
 璃に手伝ってもらいながら、暇を見つけてはチクチクと縫っている。というのが現状だ。
「結婚したくないわけじゃないんですよ!」
「ええ、そうでしょうね。
 しないと、嫁き遅れになってしまいますもの」
「何で、嫁き遅れ確定なんですか?」
 は小首をかしげる。
「旦那様が妨害しそうですから」
「えっ」
さんを手放すとは、到底思えませんわ。
 さ、お先をどうぞ。
 話したいことがあるのでしょう?」
「……」
 は首を横に振った。

    ◇◆◇◆◇

 忙しい司馬懿がそれに気がついたのは、ずいぶんと時間が経過してからだった。
 迂闊だといったら当人がキレそうな感じだが、そこまで気がつかなかったのは、やはり気の緩みや傲慢さの結果だろう。
 じわじわとした変化だったから、決定打が下されるまで、青年はわからなかったのだ。
 いつものように、やや遅い帰宅だった。
 夕食の時間がすぎていた場合、お出迎えというものに期待は薄い。
 健康的な生活をしている少女は、夜更かしが苦手だった。
 司馬懿は屋敷の中で、一番寝心地の良い寝室に向かう。
 薄ぼんやりとした灯りがともされた部屋に、小さな人影があった。
 品の良い卓に向かい、せっせと手が動いている。
 なかなか理想的な光景に、青年は満足を覚えていた。

 それを見るまでは。

 ふいに細い肩が震えたかと思うと、少女はうつむく。
 声にならない嗚咽だと、気がつくまで一瞬き。
 衝撃を受けた司馬懿が言葉を発する前に、のほうが司馬懿に気がついた。
 小動物のように警戒をあらわに、少女は立ち上がり、振り向いた。
 揺らぐ灯りの中、すべらかな頬を涙が伝う。
「司馬懿様っ!
 あ……お帰りなさいませ」
 少女は袖で涙を拭った。
 それから作り笑いを浮かべる。
「あの、目にゴミが入っちゃって。
 それで、その……」
「理由は何だ?」
 司馬懿はの袖をつかみ、詰問した。
 黒い瞳が宙をさまよう。
「目にゴミが入っちゃっただけで。
 それも取れて。
 もう嫌になっちゃいますよね。
 痛くって、涙がボロボロでちゃいました!」
 少女は明るく言う。
 わかりやすい嘘だった。
 いったい何が、この少女に嘘をつかせているというのだ。
 司馬懿は苛立つ。
「何があった?」
「本当に、何でもないんです」
 嘘に嘘を重ねる。
「ほお。
 私には話せない、というわけか。
 良い度胸だな」
 青年は少女の袖を投げ捨てるように、解放してやる。
 同情を誘うように痛々しく、は大きく身震いをした。
 黒く大きな瞳が、見る見る不安に染まっていく。
「違っ!
 違います!
 司馬懿様が考えているようなことじゃなくって!
 本当に、本当に……」
 小さな手が必死に青年の衣をつかむ。
「私の考えがお前のような愚かな者にわかるとは思えぬがな」
 引きちぎるような勢いで、己をつかむ小さな手に、司馬懿はふれる。
 振り払っても良い、というそぶりを見せた。
 効果はてきめん。
 少女は諦めたように、うなだれた。
「私、わがままなんです」
 はぽつんと呟く。
「司馬懿様と一緒にいる時間が少ないから、悲しくなっちゃうんです。
 胸にぽっかり穴が空いたみたいな気がして。
 それで……護衛武将だったら、もっと一緒にいられたのかなって。
 想像したら……。
 暮らしに、不満があるわけじゃなくって。
 だから、わがままで。
 自分でも……よくわからないんです」
 途惑いをにじませながら、少女は告げる。
 恋を知り、その憂いを味わっている、というわけではなかった。
 見捨てられた幼子のように、おびえている。
 司馬懿の想像を遥かに超える幼さだった。
「それで泣いていたのか」
 少女の頬をなでる。
 唇から安堵の吐息がもれ、黒い瞳は嬉しそうに笑む。
 一人で抱えていた不安を話すことができて、安心したのだろう。
 隠し事には向かない性格だ。
 さぞや、苦労しただろう。
 哀れだな、と司馬懿は思った。
 これから先、同じことが何度もくりかえされるだろう。
 忌々しいことに戦は、まだ続く。
 軍師である司馬懿の仕事は、増えることはあっても、減ることはない。
 少女がこの環境に慣れるのには、だいぶ時間がかかりそうだった。
 司馬懿はためいきをつく。
 さらうように、小柄な体を抱き上げる。
「ひゃっ!
 ……えーと、その。
 やっぱり、とっさのときに、可愛い悲鳴は上げられませんよ」
 は上目遣いで、訴える。
「重さのあまり、落としそうだ」
 司馬懿は意地悪く呟く。
「え!
 だ、ダメですよっ!!」
 少女は慌てて青年に抱きつく。
 護衛武将時代、身軽さが売りだったのだ。
 いくら鍛錬をしなくなったとはいえ、受身の一つや二つ取れるだろうに。
 司馬懿はニヤリと笑った。
「……そんなに……重い、ですか?」
 不安そうに少女が尋ねる。
 答える代わりに、寝台の上に落としてやる。
 さほど距離がなかったため、ぽすんという音がたっただけだ。
 司馬懿は寝台に腰掛ける。
「早く寝なくていいのか?」
 もの言いたげな黒い瞳に、司馬懿は問う。
「言われなくっても、司馬懿様よりも先に寝ます。
 司馬懿様は寝起きが悪いだけじゃなくって、寝つきも悪いんですか?
 私、司馬懿様が先に寝るところ、全然見たことがありませんよ。
 あ。でも、戦場とかは違いました。
 じゃあ、普段は運動不足ってことですか?」
 ニコニコと少女は話す。
 それを半ば聞き流しながら、司馬懿は考える。
 今はこうして明るいが、明日の少女の表情は曇っているかもしれない。
 司馬懿が見ていないところでは、涙を流すかもしれない。
 問題は一つも解決していないのだ。
「それで今日は璃さんと一緒に、刺繍をしたんです。
 けっこう進んだんですけど、まだ半分も縫えていないって言うんですよ。
 いったい、どれぐらい縫うんでしょう?
 たくさん糸を使うんですよ」
 コロコロと話題は転がっていく。
 相槌を打たなくても、少女は好き勝手に話していく。
 眠りにつくまで、声が途切れることはない。
 司馬懿はを見た。
 幸せそうに語る少女は、幸せではないという。
 泣くほど悲しいことがあるという。
「司馬懿様……?」
 夜よりも深い瞳が司馬懿を真っ直ぐと見上げる。
「明日は早い」
「え、あ。
 スミマセンっ!
 うるさかったですよね。
 そんなつもりはなかったんですけど、何故かいっぱいしゃべっちゃって。
 あの、それで」
「登城するのだからな。
 早く、眠れ」
 司馬懿は掛け布団を少女にかけてやる。
「えっ……?
 も、もしかして……それって、私もですか?
 一緒に行っても良いんですか!?」
 黒い瞳が希望でキラキラと輝く。
 護衛武将だった頃と同じ目だった。
 何が楽しいのか、お節介なほど明るい夏の太陽のような輝きがあった。
 長いことそれを目にしていなかった。
 司馬懿は指を握りこむ。
「そうだ」
 青年は己の感情を押し殺し、うなずいた。
 は満足そうに微笑むと、目を閉じる。
「明日が楽しみです」
 少女は言う。
 すぐさま安らかな寝息が聞こえてきた。

 金持ちのお嫁さんになりたい、とかつて少女は言った。
 どん底にも近い育ちのためだ。
 身を売ってもたいした額にはならないと、護衛武将になった。
 生命ぐらいしか、価値のあるものを持っていなかったためだ。
 幸福というものから縁遠い少女だったから、幸福を与えるのは容易だと思っていた。
 けれども、結果というのは皮肉なものだ。
 少女は、幸福ではない。

 それが司馬懿には不満だった。