冷静沈着、専守防衛を好み、才気走ったことよりも、堅実を好み、自分の目的に着々と近づいていく。
司馬懿という人物は、そういう人物だと信じられていた。
だから、イレギュラーなことをしでかしたりはしない。
と、司馬家に仕える面々は思っていた。
……先日まで。
◇◆◇◆◇
目覚めると青年はいなかった。
少女は、それが悲しいと感じた。
いるはずがない人物がいなくて、がっかりしたのだ。
最初からわかっているはずで、目をつぶる前に何度も心の中で確認した事柄だった。
でも、胸がきゅーっと締めつけられる。
司馬懿様、いない……。
お仕事にいちゃったんだ……。
当たり前のなのに。
司馬懿様忙しいから、お仕事しないとたくさんの人が困っちゃうのに。
でも……。
は右手をかざす。
豆だらけの小さな手だった。
もっと手が大きくなればいいのに、と何度も見つめた手だった。
弓を握る手は大きいほうが良い。
しっかり弓を握れるからだ。
遠くまで矢を飛ばすには、大きな弓が必要で、その弓を握るためには、男のように大きな手が必要だった。
だから、は大きな手がずっと欲しかった。
戦場で役に立つためだ。
その手を見る。
目をつぶる前に感じていた温もりは、残っているはずもなかった。
はそっとためいきをついた。
ふと、入り口の側に置かれた衝立の奥に、人の気配を感じた。
小柄な少女は驚き、身を堅くする。
無意識に右手が布団を這い回るが武器になりそうなものはあるはずがない。
「お目覚めですか?」
木の桶を下げ、盆を抱えた女性が入ってくる。
趣味の良い服をまとった20代前半の女性は、と目が合うとニコッと笑う。
えーっと、誰?
知らない人なんだけど。
って、ここ司馬懿様の家だから、みんな知らない人のような……。
もしかして、私に声をかけてくれてるの?
は素早く周囲に目をやる。
間違いなく、この部屋には、目の前の女性と二人っきりだ。
「ご気分はどうですか?
痛いところはありませんか?
喉が渇いてませんか?
蜂蜜で割った薬湯をお持ちしました」
女性は寝台の側に設えた卓の上に、桶と盆を載せる。
でも、敬語?
私みたいな立場の人間に敬語使うワケがないよねぇ〜。
ほらだって、護衛武将だし。
……元だけど。
って今は、平民だから、余計にこんなちゃんとした女の人が私に敬語なんておかしいし。
「……失礼」
女性は少女に手を伸ばす。
は条件反射で体をひねる。
職業病だった。
信頼しきっていない相手に体をふれられるのを忌避する。
が、
「痛っ!」
激痛が背を走りぬけ、は布団の上で丸まった。
い、痛いぃ……。
あっという間にケガが治るわけないけど。
今、皮膚が切れたような気がする。
生きてる証、ほら、生きていて良かった♪
…………痛い。
「大丈夫ですか? お嬢様!」
「お嬢様……?」
涙目になりながらは女性を見上げた。
「今ので傷口が開いてしまったんではありませんか?
いけませんわ。
すぐに薬師を呼びましょう!」
今にも部屋を出ていきそうな女性をは慌てて引き止める。
「大丈夫です!
ちょっと痛かっただけです!!」
「ですが」
「大丈夫です。
もう、痛くありません」
は断言した。
「それならばよろしいんですが……」
「それよりも、さっき聞きなれない言葉を聞いたんですけど」
「どれのことでしょう?」
女性はおっとりと微笑む。
「その、お、お」
「お?」
「お嬢様……とか、なんとか!」
「そう呼ばれるのは、お嫌いですか?」
「呼ぶって、わ、私のことなんですかっ!」
大きな目をさらに大きくして、は女性を見た。
「ええ、そうですわ。
さ、こちらをお召し上がりください」
女性は陶器の小ぶりの碗をの手に持たせる。
真っ白な器には、体に良さそうな深い緑色の液体がたっぷり入っていた。
高そう。
お茶碗もお薬も高そう……。
このまま売ったら、いくらぐらいになるんだろう。
それよりも、このお薬、お母さんにも効くのかなぁ。
この前の手紙で咳が酷いって書いてあったけど……。
私の仕送りで、ちゃんとお薬買えたかなぁ。
最近、戦続きで、物が手に入りにくいって、城下のみんな言ってるけど。
田舎はもっと大変……だよね。
「見た目は苦そうですが、思ったよりも飲みやすいんですよ。
騙されたと思って、まずは一口」
起き上がったの背に、柔らかいクッションをいくつも並べてくれる。
自然にそれにもたれかかる。
「このお薬、喉にも効きますか?」
「私は、薬に詳しくはありませんが、おそらく効きませんわ。
これはお嬢様のために調合された薬湯ですから。
……ご家族の方の心配ですか?」
「お母さんが、体が弱くて……」
「それは心配ですわね。
ですが、まずはご自分の体を労わるのが先決ですわ。
お嬢様が大怪我をなさっていると、母君がお知りになったら、辛く思われるでしょう。
元気になって、それから母君にお薬を持って逢いに参りましょう」
笑顔で女性は言う。
「はい」
はうなずく。
「では、このお薬をお飲みになってくださいね」
「もちろんです。
……って、お嬢様ってなんですかー!
や、止めてください。
私、お嬢様なんて呼ばれるような家の子じゃないんです!」
はきっぱりと言った。
「そんなにお薬を飲むのが嫌なんですか?」
女性はうつむき、目を伏せ、袖で口元を隠す。
「ち、違います!
お薬を飲むが嫌なんじゃなくて……!」
「嘘をつかなくても良いんです。
薬湯を飲むが嫌だからって、そんな」
「飲みます!
すぐ飲みます。
だから、そんな悲しがらないでくださいぃ!」
は人肌の薬湯を一気に飲み干した。
……苦い。
喉がヒリヒリするし、舌もピリピリしてる〜。
薬湯って、やっぱり美味しくないんだ……。
「ほら、飲み終わりました」
は女性に空になった碗を見せる。
「まあ、お嬢様。ご立派ですわ。
苦くありませんでした?
果実水もございますのよ。
お嬢様が甘いものが好きだと」
「あの。
その『お嬢様』ってやめていただけませんか?
できたら、敬語も……」
は弱々しく言う。
「『お嬢様』と呼ばれるのは、お嫌ですか?
でも、屋敷の者はみなそう呼ぶと思いますわ。
まだ結婚なされていないのに、さすがに『奥様』とは呼べませんもの」
朗らかに女性は笑いながら、の碗を受け取る。
その代わりに、硝子の碗を持たせる。
……この屋敷の、ってどう考えても司馬懿様の家なんだから広いよね。
そこでお仕事してる人たち、みんな?
みんな、私のことを『お嬢様』って呼ぶの?
ど、ど、どうして?
「お熱を取る効果のある柑橘ですわ。
それと、甘いお菓子。
苦いお薬を飲んだご褒美ですわ。
旦那様が、お嬢様は甘いものがお好きだとおっしゃっていましたから、ご用意しましたのよ。
お台所の努力を無為になさったりはいたしませんわよね」
「……いただきます」
笑顔に気圧されて、は果実水に口をつけた。
甘い!
美味しいぃ〜!!
果実水、今までも何度か飲んだけど。
甘くて美味しい。
「お気に召しましたか?
こちらのお菓子もどうぞ」
女性は菓子を差し出す。
一口サイズにそれを、はいそいそと口に運ぶ。
小麦を蒸したものの中には、ほの甘いアンコが入っていた。
薬湯の苦さを洗い流すには十分な甘さだった。
これを用意してくれた『旦那様』って人ってすごーく良い人だぁ。
私が甘いもの好きって、どうして知っていたんだろう。
ん?
『旦那様』って、このお屋敷の主のことだよね……多分。
で、ここは司馬懿様の家なんだから……。
「これ、司馬懿様が用意してくれたんですか?」
「正確には、そうご下命を賜りました」
「……司馬懿様が」
は笑みを零す。
「じゃなくって!
その『お嬢様』は止めてください!
それも司馬懿様の命令なんですかっ!?」
「いいえ。違いますわ。
でも、お名前を存じ上げませんので……。
旦那様は何もおっしゃりませんでしたから」
「へ?」
「妻になる人物だから丁重に扱うように。
そう言われただけですから。
もちろん、細々と身の回りのことを命じてはいかれましたが、お名前や、どこの家の方か、ちっとも、ええさっぱり、全然説明していかれませんでした」
にっこりと女性は言った。
司馬懿様、説明してなかったんだ。
……お屋敷の人、よく怒らなかったよね、それで。
いくら忙しいっていっても。
それとも、みんなそれに慣れちゃったのかなぁ。
でも、この人、ちょっと怒ってる……?
「あ、えっと、その。
と申します」
「まあ、とおっしゃるのですね。
良い名前ですわ。
では、様とお呼びすればよろしいのですね」
「是非とも、呼び捨てで!
この間まで、護衛武将やってた平民なんです!
貧しい家の出身で、その、全然……すごく、ないんです。
司馬懿様……とじゃ、釣り合いが取れない……んです。
頼れるような親戚もいなくって、お金も人脈もなくって……。
だ、だから……っ」
どうして、司馬懿様と生まれがこんなに違うんだろう。
それなのに、どうして司馬懿様は……私なんかを。
私でいいって……、やっぱりそんなのおかしいんだ。
これは何かの間違いで……。
司馬懿様の役に立てない……。
だから、私じゃ……ダメで。
「私、璃と申します。
代々、この司馬家に仕えています。
あの旦那様がお選びになったんですもの。
素晴らしいに決まっています。
ご自分を卑下なさらないでください」
璃は穏やかに言った。
「で、でもっ!」
「あんなに必死な旦那様を見たのは、初めてでした。
さんとお呼びしますわね。
さんを抱きかかえて、屋敷に戻られた旦那様は……末代までの語り草ですわね。
旦那様が一生懸命に守ろうとした命です。
だから、自信を持ってください」
「あ、ありがとうございます」
泣きたい気分になったけれど、は泣かずに礼を言った。
◇◆◇◆◇
屋敷の主が帰ってきたのは、夜も更けた頃のこと。
少し欠けた月もが頂点から滑り落ちる時分のことだった。
ふわっと香る。
枯れた葉っぱを集めたような香り。
秋の匂い。
は目をこすり、香りの方向を見つめる。
「し……ばい、様」
「起こしたか」
「起きてました。
ちょっと、寝ちゃったかもしれないけど」
は身を起こす。
「どっちだ」
寝台の側に置かれている椅子に司馬懿は座る。
「司馬懿様を待ってたんです」
「恩着せがましいな」
「そんなつもりじゃ。
とにかく、待ってたのは……」
話している端から、あくびが出る。
いっぱい眠ってるんだけど……、いくらでも眠れちゃう。
何でなんだろう。
「眠いのならば、寝ろ。
体が休息を必要としているのだろう」
司馬懿は立ち上がり、を布団に押し戻す。
「今朝よりも、顔色が良いな」
冷たい指先が額に乗せられる。
「お薬を飲んだからです。
司馬懿様はあいかわらず顔色が悪いですね」
は言った。
司馬懿はの口を軽く引っ張る。
「この口はあいかわらず垂れ流しのようだな。
ずいぶんと元気になったようだな」
「おかげさまで」
ヘラッとは笑う。
司馬懿は呆れながらも少女の肩まで布団をかけてやる。
「あのですね、司馬懿様。
司馬懿様に言おうと思っていたんです」
睡魔に襲われながらも、は言葉を紡ぐ。
「何だ?」
「お帰りなさい。……って。
だから、ちゃんと、待ってたん……で、す」
ちゃんと、司馬懿様に言えて良かったぁ。
……ホントはもっとおしゃべりしたいんだけど。
すっごく眠いから、明日……。
ん、明日、話を……。
少女の緊張の糸はプツンッと切れてしまった。
は眠りの海を彷徨う一艘の小船になった。
だから、この後の司馬懿の言葉を知らない。
予想はできたとしても、その声の甘さと表情を知ることはない。
「馬鹿め」
司馬懿はためいき混じりに呟いた。