「3月14日」23年版


「旦那様」
 屋敷を出る前に声をかけられた。
 司馬懿が振り向くと、侍女頭の璃がにこにこと笑って立っていた。
「忘れ物ですよ」
 と小箱を差し出した。
 それで、今日が3月14日だということを思い出した。
 一月前のお返しを贈る日だった。
「旦那様がご用意されるなんて珍しいですね。
 よっぽど素晴らしい女人なのでしょうね」
 璃が言った。
 司馬懿はためいきをつく。
 侍女頭の想像とは正反対の少女だろう。
「義理だ。
 返さないとうるさそうだからな」
 と司馬懿は小箱を受け取った。
「早くご紹介くださいね。
 未来の奥様を」
 意味深なことを璃は言うと、丁寧にお辞儀をした。
 司馬懿は眉をひそめて屋敷を出た。


   ◇◆◇◆◇


「おはようございます!
 司馬懿様」
 歩く真昼の照明器具。
 そうたとえられる少女が執務室にやってきた。
「お茶ですよ」
 は司馬懿の左手側にお茶を置いた。
「茶菓子ですか?」
 執務机に置かれた小箱に、は目にとめた。
「司馬懿様が甘いものを口にするなんて珍しいですね」
 はハキハキと言った。
 今日の日付を忘れているようだ。
 そもそもチョコレートは義理だった。
 それでも手作りのものだったから、それなりにこめられた気持ちがあったのだろう。
 そう司馬懿は思っていた。
「お前にだ」
 司馬懿は筆を置くと、小箱をに差し出した。
「ご褒美をもらえるようなことを、何かしましたっけ?」
 は黒い目をパチパチと瞬かせる。
 確実に忘れさられている。
 司馬懿自身も当日まで忘れていたが、これには参った。
 完全な義理チョコレートだった。
 それが確定したのだ。
 少女はお返しの期待もしてもいなかった。
 そのことが司馬懿には不愉快だった。
「……。あっ。もしかして。でも。
 だって。
 司馬懿様が……」
 隠し事のできない正直者の護衛武将は混乱しているようだった。
 の口からもれてくる言葉に、司馬懿はためいきを一つ。
「ホワイトデーですか!?」
 大きな目をさらに大きくして、は言った。
「うるさい。耳元で騒ぐな」
「スミマセン。
 司馬懿様が用意してくれるなんて。
 まったく思っていなかったんですが。
 嬉しいです!」
 は小箱を受け取った。
「手作りですか?」
「そんな暇があると思うか?」
 執務机に乗せられた竹簡の山に手をのせる。
「そうですよねー。
 ありがとうございます。
 大切に食べますね」
 嬉しそうには笑った。
 その顔を見て、用意をしておいて良かったと司馬懿は自然に思った。
 我ながら単純だ。
 陶磁の茶碗に口をつける。
 ほどよい温度で淹れられたお茶は、まろやかな味がした。
 ふと璃に言われた言葉を思い出し、そんな未来があるはずがないと思った。
 そんな幸せな未来の可能性はどこにもない。
 少女も司馬懿も戦場に立つのだ。
 どちらかの生命が奪われるのは珍しくない。
 そう遠くない将来だ。
 指先一つで決まることだった。
 だから、平穏な今は行事ごとに参加してもいいと思えたのだ。
 いつか切ないほどの思い出になるような一日だった。

>>戻る

>