隠れ鬼


 この忙しい時期だというのに、が姿を隠した。
 たかが小娘一人。
 どこにいても、変わらないだろう。
 城内を散策しているかもしれないし、城下に降りたかもしれない。
 可能性はいくらでもあった。
 たかがそれだけのために、司馬懿は呼び出されたのだった。
 少女の婚約者、という理由が一つ。
 曹魏きっての名軍師、という理由が一つ。
 ためいきをつきたかったが、曹丕からの命令だった。
 拒否権はなかった。
 司馬懿は苛々しながら、書斎に戻った。
 隠れ鬼は意外なところにいるものだ。


「私から隠れようとするのが甘い」
 司馬懿は書斎の中央で言い放った。
 それでも少女が出てくる気配はしなかった。
 当たり前だろう。
 は司馬懿と顔を合わせたくないのだから。
 司馬懿は懐から小銭を出した。
 部屋の中央で、それをばらまいた。
 床と金属がぶつかりあう音がにぎやかに立った。
「お金の音!」
 部屋の片隅に置かれていた衝立からは出てきた。
 日に焼けた小さな手が小銭をつかむ。
「あ!」
 黒い大きな瞳が司馬懿を見上げた。
「どうやら隠れ鬼の勝者は私のようだな」
 司馬懿は皮肉気に笑った。
「ひどいですー、司馬懿様。
 こんなやり方するなんてずるいですー」
 は訴える。
「馬鹿め。
 この程度の小銭で引っかかるお前が悪い。
 こんなはした金。
 いくらでも稼げるだろうに」
 司馬懿は言った。
 青年の足元で、縮こまっていた
「どんなお金でも、お金です。
 お金持ちの司馬懿様から見れば、はした金かもしれませんが、これで薬が買えるんですよ」
 言った。
 父を喪い、病弱な母の代わりに、山野を駆けて獲物をしとめてきた少女らしい言葉だった。
 その腕前は天賦の才。
 小柄ながらも、戦場で敵兵を討ち取ってきた。
 司馬懿の補佐としてつけられた破格の護衛武将だった。
 は床に散らばった小銭を一つ一つ丁寧に拾う。
 そして、立ち上がり、司馬懿に差しだした。
「どうぞ」
「いらないのか?」
「これは司馬懿様のお金です。
 私のものではありません」
 はキッパリと言った。
 お金にがめつくとも、公私をわきまえている。
「駄賃だ。
 焼き菓子ぐらいは買えるだろう」
 司馬懿は小さな手に握らせる。
 自分の手と違い、あたたかかった。
「城下にお忍びをしろってことですか?
 私、最近、気がついたんですけど。
 けっこう有名人らしいので、人だかりができてしまいます」
 は言った。
「今さら気がついたのか?
 まあ、殿ですら城下に降りることがある。
 しゃべらなければバレることはないだろう」
 司馬懿は苦笑いをした。
「それにお菓子は甄姫様や昔なじみの方々から、どっさりと届くんですよね。
 痩せすぎだ、とか。
 もっと肉をつけた方がいい、とか。
 護衛武将でなくなってからも、筋トレは欠かさずやっているつもりなんですが、どうしてでしょうか?」
「私の子どもを産むには、細すぎるからだろう。
 出産は体力が必要らしいからな」
 しれっと司馬懿は言った。
「そういうものなんですかねー。
 確かに甄姫様も妊娠していた時期は、面やつれしていましたよね。
 つわりで口に入れられるものも少なくなって。
 殿が右往左往していたのは、ちょっと面白かったです。
 魚ちゃん先輩が笑っていました」
 黒い瞳は懐かしそうに話す。
 真昼の照明器具と呼ばれるほど明るい少女だ。
 司馬懿が言った言葉の意味を理解するまで、しばし時間がかかる。
「え、あれ……」
 は司馬懿から目を逸らす。
 口を引き結んで、まつげを瞬かせる。
 耳まで真っ赤になって、ようやく気がついたようだ。
 おしゃべりな少女が沈黙する。
「司馬懿様の子どもを産むのって、私ですか!?」
 声がひっくり返っていた。
 わかりやすい少女の反応に、司馬懿は愉悦を感じた。
「結婚前から不貞を咎められるような真似をした覚えはない」
 司馬懿は断言した。
「お金持ちなのにモテないんですか?」
「そんな女は願い下げだな」
「殿の右腕だし、政務官としても立派な働きですよね。
 戦場でも、軍師としての働きはもちろんのこと、武将としても頼りになって。
 そりゃあ少しぐらい顔色が悪いし、不摂生ですけど。
 顔立ちは悪くないですし。
 背だって低くなく。
 いつでも、庶民のために日々、働いているのに」
 は面と向かって言われると面映ゆいことをすらすらと口にする。
「それぐらいでいい。
 存外、褒めるのが得意なのだな」
 司馬懿は口角だけ持ち上げるように言った。
「褒めていませんよ!
 護衛武将として就任して、司馬懿様の傍で働いていたから、知っていることです!
 司馬懿様がやさしいことはこ、……こ、……婚約者になってからわかりましたが」
 は赤面しながら告げた。
「お前はお前のままでいい。
 変わらずにいてくれれば充分だ」
 司馬懿は手を離した。
 小さなの手には小銭が残った。
「隠れ鬼をした理由をまだ聞かせてもらっていないのだが?」
「覚えていましたか」
「簡単に忘れることではないからな」
「別に、司馬懿様から逃げていたわけじゃないんです」
 は小銭を握りしめる。
「城で散策していると、問い詰められるんです。
 司馬懿様と……その、どこまで、進んだのかって。
 口づけはしたのか、とか。
 夜伽をしているのか、とか。
 だから、一番安全な司馬懿様の書斎に逃げたんです」
 はうつむいてぽつりぽつり、と語る。
「噂好きな人間はどこにでもいるものだ。
 一番効果的なのは無視することだ。
 下手に反応するから、玩具にされるのだ」
 まあ、これほど面白い玩具はないだろう、とは司馬懿はあえて言わなかった。
「以前のように、屋敷で私の帰りを待っているか?」
 司馬懿は尋ねた。
 はパッと顔を上げた。
「それは嫌です。
 司馬懿様は忙しいから、ただでさえ一緒にいられる時間は短いのに」
 もう護衛武将ではないから、と付け足すようには寂しく言った。
 再び少女がケガをしない対価は別離の時間が増えたことだった。
 だからといって、を護衛武将に戻すことは考えられない。
 あんな思いをするのは、二度とごめんだ。
「なら、我慢するのだな」
「名案はありませんか?」
 はすがりつくように尋ねる。
「殿からして、話好きなのだ」
「え! 本当ですか!?」
 黒く大きな瞳がさらに大きくなる。
「毎朝、顔を合わせると、結婚式はいつだか訊かれる。
 国上げて祝ってやる、とも言われるな」
「意外に司馬懿様、忍耐強いですね」
 はためいきをついた。
「甄姫様、一筋だからな。
 先代が元気だった頃は、他の悩みがついて回った。
 それに比べればマシだ」
 司馬懿は言った。
「先代?」
「聞きたいのか?」
「……嫌な予感しかしないので、結構です」
「話が短くて、助かる」
 司馬懿は椅子に座る。
「あの、このお金は?」
 が困ったように尋ねる。
「好きにしろ。
 それよりも溜まった執務をこなさなければならないからな」
 書卓の上に載った竹簡の山を崩す。
「じゃあ、お茶、淹れてきますね」
 は小銭を懐にしまうと、部屋から出ていった。
 司馬懿の視線は、それを追いかける。
 いつ、いつまでも。
 姿が見えなくなるまで。
「隠れ鬼は向いていないな」
 誰に聞かせるわけではなく呟いた。

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